2016.09.26

高知市下知地区でJICA研修生との意見交換会が開催されました。

 2016年9月22日(秋分の日)は、JICA(日本の政府開発援助(ODA)を一元的に行う実施機関として、開発途上国への国際協力を行っている。)の研修生14人が朝9時半に下知コミュニティ・センターへ来られました。

 高知大学大槻准教授が窓口になり、バングラデッシュ、チリ、フィディー、グレナダ、ガイアナ、ジャマイカ、ナウル、パラオ、フィリッピン、ソロモンからの来訪者の皆様で、お国では防災担当の責任者です。

 下知減災連絡会スタッフ各位は、午前8時半集合で準備作業をしました。屋上へ国際信号旗の掲揚を横田政道さんがされました。訓練旗のU・Y旗とV旗(避難者がいます)。W旗(医療支援が必要)を掲揚しました。
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 9時半から研修が始まりました。まずは大槻知史准教授が「学校教育・市民教育・コミュニティ防災」について講演をされました。すべて英語による説明なので理解度は数%でした。
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 続いて高知市地域防災推進課山中晶一係長が「高知市におけるコミュニティ防災」という表題で講演されました。「高知市における自主防災組織の特徴」「高知市における防災計画」「下知地区と高知市地域防災推進課との連携」について話をされました。
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 終了後全員で屋上へ集合しました。そこでは下知コミュニティ・センターの施設であるLPガス災害時・ユニットを使用して。非常食(アルファ米)に熱湯を注ぐために、お湯を沸かしています。システムの説明をLPガス協会(ツバメガス)の小吉さんがされました。LPガス発電機で投光器の電氣の確保の実例も示されました。
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 沸騰したお湯をアルファ米(今回はチキン・ピラフ)に注ぎ、15分封をします。坂本茂雄さんが実演しました。屋上に掲揚してある国際信号旗の説明をして、3階へ移動しました。
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 そこで皆で食事をしました。アルファ米としては、チキン・ピラフ、エビピラフ、白米と缶詰パンがありました。飲料水は5年保存のものを使用しました。
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 昼食後は3つの班にJICA研修生の皆さんも別れ下知まち歩きをしました。目的は下知地区がいかに低地なのか。また川や海に近いか。津波避難ビルはどうなのかを歩いて体験していただくことです。下知地域の現状がJICA研修生の皆さんも体感できたと思います。
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 C班は、二葉町―若松町の下知地区南岸コースです。下知コミュニティ・センターから、二葉町の古い低層木造住宅密集地区へ向かいます。途中二葉町自主防災会の消火栓ホース・セットと消火器セットの格納箱を見ていただきました。

 高知で自動車交通量が1番多い国道56号線沿いを歩きました。途中民間賃貸マンションで市指定の津波避難ビルの岡村ビルを確認しました。続いて二葉町歩道橋に上りました。
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 海抜5・3M程度の高さがあるので、地域の中での津波避難タワーの機能は果たすと思います。
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 続いて地区指定の「津波一時退避場所」(二葉町では11カ所あります。5階建てですが、昭和56年以前に建築された新耐震以前のビル。高知市の津波避難ビルにはなっていません。)屋上まで階段を昇降しました。

 続いて鏡川大橋の落橋防止・チェーンを見学し、堀川浮桟橋を歩きましたb。いかに市街と海が近いか、隣接している現実を体験いただきました。堀川水門を横目に見て、二葉町の耐震護岸工事の現場を歩いて、若松町へ向かいました。
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 若松町では町内会の橋本副会長が、低地の住宅街である若松町の現状説明をしました。

 50分ほどまち歩きをして下知コミュニティ・センターへ戻りました。

 午後の講演は、下知地区減災連絡会西村副会長が、「下知地区のこれまでの防災への独自の取り組みと、今後のビジョン(地区防災計画=事前復興まちづくり計画」について説明をしました。

 続いて下知地区減災連絡会坂本事務局長から「マンション自主防災会の取り組みと昭和小との防災教育での連携」が述べられました。
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 講演終了後、JICA研修生たちは下知まち歩きの班ごとに集まり、下知地区スタッフと意見交換会をしました。

 JICA研修生の皆さんから多様な意見を聞くことができました。
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「歩くと本当に低地でたくさんの人が住んでいる市街地であることがわかりました。家も古い低層の家が多く心配です。」

「歩道橋は髙さ5・3Mあり、津波による浸水を避けられる。であるならば、下知地区にいくつか横断歩道橋型避難タワーをこしらえるべきだ。」と言われました。

 高木妙さんが、静岡県吉田町の大規模な横断歩道橋型津波避難施設の紹介がありました。

「下知地区には、高知市指定の津波避難ビルが少ない。地区住民が賃貸マンションの所有者と独自の協定を結んで、「地区津波一時退避場所」が二葉町は11カ所、7か所あります。)。地区津波一時避難場所を市指定の津波避難施設にしないと多くの人が津波から逃げ切れないだろう。」

「下知コミュニティの皆様の真摯さや真剣な取り組みに感激しました。地震災害。津波災害に脆弱な地域にお住まいであることを理解することができました。」

「海と川の耐震護岸工事はいいことで理解できます。下知地域は低地で海沿いなので、液状化が心配です。なにか対策はあるんでしょうか?」

 それに対しては「液状化対策はやれないことはないと思います。まずは「命を守る」ことが第1歩。続いて「命をつなぐ」ことです。事前に可能な限りの対策は、個人でも地域でも企業でも行政でもしないといけないです。

 JICA研修生を代表して、感謝の言葉をいただきました。JICA研修生の皆様も大変熱心に受講いただきました。下知のローカルな発想や実践例が、褒められました。本当に真摯な皆さんでした。有意義な1日を過ごすことができました。

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2016.09.25

父(97歳)のリハビリ・ゴルフ

 今朝は雨模様でしたが涼しい。朝8時半過ぎの大橋通りのラビータの温度表示計は23度でした。同時刻に30度を記録していた時期から言えば随分涼しくはなりました。

 いつものように父(97歳)は、自己流の体操と水分補給(OS-1・経口補水液)をして球をゆっくりと打ちます。
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 今日は先週よりペースが早い。調子がいいのでしょう。10時前に打ち終えました。
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歩きも階段昇降も歩みは遅いですが、なんとか自分の足で歩いてはいます。超高齢者の父のとりましては、趣味のゴルフの練習をすることが、何よりの生きがいのようですね。
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 戻ると家内が待ち構えていて、近くのスーパーへ買い出しに。8倍だそうです。今日は午後1時過ぎから消防の指導で「重量物からの救出訓練」があります。重労働ポイので、年寄りは実践ではなく見学になるかもしれませんね。

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入ってくる情報をいかに地域に伝達すればいいのか

  2016年9月22日(木・祝日)は、昨年に続いて高知大学の養成で、JICA研修生(途上国の防災担当者)の下知地域での意見交換会の受け入れをすることになりました。地域コミュニティ防災のありかたの報告や、下知のまち歩きなどを予定しています。

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 9月25日(日)は、午後から、高知市自主防災組織連絡協議会主催で、高知市南消防署南部分署(春野)にて、下知地区減災連絡会では、副会長の西村と、若松町自主防災会会長の横田政道さんと、弥生町自主防災会準備会の大崎修二さんの3人で参加することにしています。

 実技項目は「重量物からの救出研修」です。手動の油圧ウインチやチルホールなどを使用すすのでしょうか?参加してみないと内容はわかりません。

 9月27日は「第5回下知地区防災計画検討会」が下知コミュニティ・センターで開催されます。下知地区の事前復興計画のイメージづくりや、地域の合意形成課題を出す重要な意見交換会です。

 1市政の市民にすぎませんが、学識者や行政関係者や、報道関係者と意見交換するたびに知識が増えて行くのがわかります。それを地元の地域住民各位に正確に伝達することが、とても難しい。

 とくに町内会や自主防災会の活動に一切参加しない人たちへの伝達に関してはお手上げ状態です。予算的にも町内会へ入会していない住民への情報伝達の方法はありません。

 このブログなどを見ていただくより方法はありません。ブログは自分から情報を取りに行かないといけない媒体です。市民各位も防災や減災の情報を積極的に自分から取りに行くことをしていただきたいです。
 

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2016.09.24

朝から晩まで夜須の海でした

 早朝は五台山市民農園での雑草引き作業でした。戻りまして両親のケア(おむつ替え)をしまして、一緒に朝食を食べ「とと姉ちゃん」を見てから夜須のハーバーへ向かいました。

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 ヤッシー・パークへ着きますと駅裏の訪にて、おむすびと卵焼きを買いました。保冷箱に入れて昼食時まで保冷しました。ヨットをぎ装(組み立て)して海へ出ました。今日はジュニア・ヨットクラブが10艇出ています。
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 ところが午前中は風が弱く,ヨットは進みません。40分ほどで諦め着艇しました。ハーバーへ上がりますと、徳島県美波町から船木さんが来られていました。昼食を食べたらすぐに出艇しますとお伝えしました。手早く昼食を食べ、ぎ装し、海へ出ました。
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 午前中よりは風がありました。赤岡目指して一緒に帆走しました。向かっているうちに良い風になりました。ジュニア・ヨットクラブも井土コーチが海面にブイを打ち、スタートとマーク回航の練習をしていました。
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 午後2時半になりましたので、私は上がりました。今日はこれで終りの予定でした。ハーバーで懸命にぎ装をされている人がおられました。清久さんでした。聞けば1年ぶりとか。「ぎ装を忘れました」と言われるので、一緒にぎ装しました。

 ぎ装の間に風が強くなりました。せっかくぎ装したのに海に出ないのはもったいない。ブランクが清久さんにあるようですので、私がバラスト代わりに乗り込み清久さんのヨットに2人で乗りました。

 海面へですと結構風が強く吹いています。セールとテルテールの形と位置で良く帆走出来る場合と、そうでない場合を覚えていただきました。アビーム、クローズ・ホールド、ランニングと帆走を2人で楽しみました。

 午後4時過ぎに着艇しました。わたしのぎ装も解除していませんでしたので、それから後にぎ装解除し、片付けをしました。体を洗い着替えて、ヨットにカバーをかけてロープで縛ると午後5時を過ぎていました。丸1日海で遊びました。

 キューバ仕様でおっさん2ショット

 すっかりいつもより遅くなり道の駅やす事務所へ。山本宏之さんとの「おっさん2ショット」は、わたしの方は、何故か安倍晋三首相が、キューバを訪問。手厚い経済支援をするとか。」

 キューバと言えば、チェ・ゲバラさんですよ。学生時代に娘がプリントしたTシャツを着て行きました。やまもとさんは、救命胴衣を着用されました。
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 マナマナ・アイスバーを御馳走になりました。ブドウ味に、パインがはいっている果実アイスバーでした。「グレープ・パイン」というそうです。とても美味しかったです。まだまだ高知は夏です。
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 とは言え5時半を過ぎますと早くも夕暮れに。車も渋滞していました。自宅へ戻りますと真っ黒になっていました。秋は日暮れが早いですね。

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9月24日の五台山市民農園作業

 土曜日の朝6時は横田政道さん宅へ集合。そこから自転車で10数分かけて下知愛のふるさと農園へ行きます。途中五台山農協の良心市が開かれています。そこで野菜などを物色して農園へ向かいます。
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 農園は急傾斜の高台。83段の階段の上にあります。自分の足で登るだけでも大変。横田政道さんは大道具の引き上げと、土の運搬を企画しています。すべて人力で上げるしかありません。還暦廻った年寄りには重労働です。下知コミュニティ・センターの防災倉庫から「しょいこ」を借りて来ました。背中に背負って運びます。果たして年寄りでも出来るのか?近日中に実行予定です。
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 作業前にまずは五台山農協婦人部の良心市(水曜・土曜の早朝開場)にて、今日はオクラ(1袋100円)を購入しました。市民農園は津波避難誘導灯が近くに立っています。83段の階段を昇降して作業を始めます。

今日の作業は雑草引きをしました。横田政道さん、大崎修二さん西村の3人での作業です。雨が降ると雑草も勢いが出ます。僅かの面積ですが手間暇がかかるものですね。ゴーヤは小ぶりですが7個収穫しました。ゴーヤさんもそろそろお終いですね。
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 今後は本格的な畑の手入れが必要であると横田農場長は言われています。

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「完本・情況への発言」を読んで

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 ようやく5年間かかって読み終えました。分厚くて、知らない人たちを罵倒する文章が多くて、正直しんどい所がありますした。読後感は「今は爽やかな」気分です。


 学生時代に入っていたサークル関係者にご縁が深かった吉本隆明さん。4年前の2012年3月16日にご逝去されました。大正13年生まれですので、うちの母より1つ上で、父より5歳年下の人でした。

当時個人ブログに「追悼文」を書いていました。

「吉本隆明氏の逝去を悼む」(2012年3月16日)

http://dokodemo.cocolog-nifty.com/blog/2012/03/post-8f43.html

 5年前に大枚3240円で「完本 情況への発言 吉本隆明」(洋泉社・2011年・刊)を高知市の本屋(金高堂)で見つけ購入していました。当時は吉本隆明氏の死期が近いと思い購入していました。

 購入したものの700Pもあり、1962年から1997年まで発刊されていた「試行」という雑誌に吉本隆明氏が寄稿したものすべてをまとめてありました。

 読むと、今となってはわたしも知らない論敵を罵倒し、こきおろす文章が大半。もはや古典の世界です。この種の文章はリアルタイムでないとわかりません。吉本隆明さんはずっと存在し続けましたが、吉本さんが当時罵倒した相手の人達は、「消えて」いるからです。
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 そのなかに「切れ切れの観想」(1976年9月)に書かれた文章がありました。
「三上治に依頼されて6月18日に「情況の根源から」と題する講演に出掛けた。  

 中略・・・。

 ところで、事は、三上治の属していた政治党派の内部で、十分な決着がついてなかったらしく、講演会は叛旗派の面々の妨害により中断せざるを得ない混乱に終始した。
 わたしは、あまりに馬鹿馬鹿しいので、檀上に駆け上がって騒いでいる連中には懇談してもらって、じぶんの喋りたい思って用意してきた情況論は、しゃべることにした。

 なぜならば集会の主人公は、身銭を切って講演を聞きに来た公衆であり、それ以外の何物でもないという原則をもっていたからである。」(P257)
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 私の記憶が正しければ、吉本さんの講演は、1976年6月18日に東京・品川公会堂で行われた共産同叛旗派解体集会でした。三上治と、神津陽の一党が対立し、罵倒しあっていました。吉本さんがなだめたという記憶はありました。私は「いくばくかの参加費を支払い」見学に行っておりました。

 それは40年前の出来事。その後共産同叛旗派は解体し、再興されることもなく40年経過しました。あのことの清新な政治理念はどうなったことだろうか?40年経過して現れないものは、今後も未来永劫現れないでしょう。

 今「情況への発言」を読み返しても、「古典」を讀んでいる感じですね。
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 災害列島日本で「何事もなかったかのように」原発を再稼働し、沖縄の声を全く無視し軍事基地づくりを政府は強行しています。

 ヘイトなファシストの声が大きくなるが、きちんとした政治党派は影も形も見えません。やはり40年前に滅んだものは、再興されないまま、風化したんでしょうか?そのことを思いだすたびに、情けない気分になるのはわたしだけでしょうか?
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 巻末に松岡祥男さんが「解説」を書かれています。高校時代の社会運動でご一緒したことがあります。高校生時代の私はアホな毛沢東主義者でしたが。松岡さんは「吉本隆明という人は凄い」とか言われていました。先見性がある人でした。

「試行」という雑誌は、60年安保闘争敗北後の1962年に発刊されています。同人に村上一郎や谷川雁らがいたようです。そのあたりの時代背景を松岡さんは記述されています。

「ブントは分裂し、全学連幹部は日和見と組織エゴに凝り固まった小日共さながらの革共同に屈服転身するものが続出した。
 吉本は、権力の側からも、共産党をはじめとする対立党派やその同伴知識人からも、また行動を共にした転身メンバーからも、標的として集中砲火を浴びることになった。この孤立の中から「試行」は生まれたのだ。」(「試行とはなにか」P688)

 なるほど「孤立無援」ななかで「試行」は創刊されたのですね。だから相手を罵倒する文章が多いわけですね。多くは歴史上消え去った人たちだけに思想的にも社会運動的にも今思えば大したことはないようですが、当時としては幅をきかせていたんでしょう。「事情」は松岡祥男さんの解説で理解できました。

「「情況への発言」は1970年10月(試行第31号)から、論敵たちの言説(批判や攻撃)を引用し、それに反批判を加えるコメント方式をとっている。時代の急激な変容に即応するために、このスタイルが選ばれているといえる。

 吉本隆明は、この時期、「心的現象論」「最後の親鸞」「初期歌謡論」といった体系的な思索と古典に打ち込んでおり、思想的主題の深さに比例して、それは心身の動きを重くする作用が伴うものと思われる。

 吉本にとって、この即興的なスタイルは、寸暇をみつけて身を起こし、その時々の情況に対応しようとするものだ。たとえ、それらが時事的な泡沫で、すぐ時の流れの上に消えてしまうものであったとしても、そのアブクにしか見えない現象の中に、実は永続的な課題が内在していることもありえる。

 生々しい関心の持続、それ自体が思想の生命線の1つなのだ。しかし、このスタイルは、さらなる即時的な反発や憎悪を呼び起こし、荷立たしい様相を呈することも否めない。」(「根源的な志向性」 P691)

 分厚い書籍に中で、論争相手への罵倒と罵詈雑言の類も多くのページに記述されています。当時はワープロなんぞもなく、手書きで原稿を書いていたんでしょう。わたしなどは文章書くことで、相手への怒りは昇華され、案外冷静になりますが、吉本隆明さんの怒りは収まらず、とめどなく記述される理由が判明されましたね。それにしてもしつこいキャラクターですね。

「吉本はこの時期、埴谷雄高らの内ゲバの停止を求める「声明」の呼びかけ人への参加の要請を拒否している。これら知識人や自称オルガナイザーの無原則的な、ろくでもない妥協と密通を否定するとともに、腐敗した新左翼党派の延命に手を貸すことを拒絶したのである。

 これが同時にデマゴギーや匿名攻撃を粉砕する実践的態度であり、「情況への発言」に一貫するリアリティなのだ。」(「根源的な志向性」 P693)

 1973年の大学へ入学した当時は、70年安保闘争敗北後の党派闘争の時代でした。なぜささいな違いで殺し合いまでするのか。その刃は国家権力に向かうことなく対立党派の構成員に向けられていました。

 事実、教科書を譲っていただいた別のサークルの先輩学生が、下宿で対立党派に襲われ頭を鉄パイプでかち割られ亡くなりました。所属サークル主催の学生集会の最中に、あるセクトの人達が血相を変えて向かって来ます。「来たぞ来たぞ!!」と叫びながら。見ると鉄パイプをもった数人が後追いしてこちらへ向かってきます。とっさに横へ逃げました。襲う別のセクトの人達は、ちゃんと対象のセクトの人達の人相がわかっているようでした。真底怖かったですね。誤爆されて殺されたら嫌ですから。

 1970年中期から本格化した陰惨な内ゲバは、1972年の連合赤軍事件ともども一時期盛り上がった新左翼運動の衰退要因でした。埴谷雄高たちが「内ゲバ停止宣言」に、吉本隆明氏が拒絶した理由が、今更ながらに理解できました。

 やはり潰えるものは潰えるということですね。当時新旧左翼一般を吉本隆明は批判しています。少し引用が長くなりますが、松岡祥男さんの記述です。

「吉本はこの末期的な症状にとどめを刺すために、対馬忠行の追悼文を入り口にして「アジア的ということ」の連載を開始している。この「アジア的ということ」は圧倒的な意義をもつものだ。

 吉本は、マルクスの「インドにおけるイギリスの支配」の概念から、<コミューン型国家>や<プロレタリア独裁>の概念を厳密に再措定してゆく。そして、そこからレーニンら(ボルシェビキ)に主導されたロシア革命とその権力がいかにマルクスの思想的原理から乖離したものであっいたか。

 レーニンらは、コミューン型国家即ち国家廃絶の原則を現実的に放棄し、<プロレタリア独裁>の概念を「プロレタリア前衛党の独裁」に、<生産手段の社会化>を「生産手段の国有化」に矮小化したことを明らかにする。

 これはロシア。マルクス主義の限界と転倒を指し示すとともに、国内的にいえば、日本共産党から新左翼にいたる全党派の理論的な支柱を完全に打ち砕くものだ。

 この吉本の根源的な指摘を左翼であろうとする限り、誰も回避することはできないといっていい。」(「根源的な志向性」 P694)

 わたしは、知識人でもなく、田舎町の市井の市民にすぎません。

 吉本隆明さんは「市井の片隅に生まれ、そだち、子を生み、生活し、老いて死ぬといった生涯をくりかえした無数の人物は、千年に一度しかこの世にあらわれない人物の価値とまったくおなじである。」(吉本隆明著「カール・マルクス」)と書いています。

 市井の大衆を「おだてて」はくれますが、それによってどうなるものではない。市井の大衆は愚かで刹那的で、物事を深く考えす、今の政権を支持し、原子力発電所の再稼働を支持し、自衛隊を海外へ派兵することにも賛同しています。わたしも愚かな大衆の1人です。

 時折学生時代や若い頃に購入していた「試行」。1962年から1997年まで巻頭に書かれていた「情況への発言」を毒気に当たられながらようやくすべて読むことができました。

 正直吉本隆明氏の著作は、買い揃えてはいますが、難解でわかりにくい。晩年の高齢者になったから病床で書いた文章は同じ「戦中派」である両親のことを思い浮かべるとわかりやすい。それだけです。
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 「老いの幸福論を読んで」

http://dokodemo.cocolog-nifty.com/blog/2012/04/post-8bfc.html

 亡くなる1年ほど前に出版されていたようでした。

「「いい医者、悪い医者の問題で言うと、医者が場合によっては相手を病気にさせちゃうことがあります。患者のほうも自分で気に入らないことに出くわすと、自分で病気をつくってしまう。自分の都合のいいように病気になるんです、」(「老いの幸福論」P178)

「足腰が痛くなろうとも、歩けなくなろうと、それを防ぐ唯一の方法は、要は医者が言うのと反対によく動かせばいいんです。」

「身体にとってはじめはきつくても「、無理して動かす。そうすると精神的なほうが治ってくるんですよ。これは近代医学の先生が言っているのとはるいかに違う。格段に違って精神が美味い具合になれば、身体の悪いところは改善に向かいます。」(P178)

「老いについて言えば、生と死に分かれ目に近づいては言えると思います。でもこれが幸福なのか不幸なのかわかりません。幸福とは言えないだろうけれども。そんなに不幸だという感じもしない。

 頭の中では、もっと生きていたいとか、まだやりたいことがあるとか、心残りはあるんだろうけれども、だからといって、それはそんなに不幸なことだろうか。

 僕はじゅうぶんに生きたということもありますし、生きていても、いいことも嫌なことも数限りなくある。だから、生きている苦労や不幸と比べてみて、死ぬことが不幸とばかりは言えないと思うんです。」(あとがき)

 日本社会を「どうするこうする」の大きな志はありませんが、小さな高知市下知地域の住民として、南海地震が来れば、人生も生活も即終りのような、絶望的な状況をなんとかしたい想いだけは、強烈に持ってはいます。

 零細企業の経営と超高齢の両親の在宅介護の合間に少しできる高知市下知地域の地域防災活動。それは日本社会のあらゆる問題点と矛盾が凝縮しています。そのことを考えることは、例えとしてはおこがましいが、かつて吉田松陰が、安政の大獄後、萩の牢獄から世界を見ていたようなものではないでしょうか。

 案外高知の田舎の市井の1市民が、世界の事を考えていることもありかなと思います。物事を考える「トレーニング資材」として、吉本隆明氏の「情況への発言 完本」(洋泉社・2011年刊)は、役に立ちました。

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2016.09.23

母とはりまや橋商店街へ行きましたが・・・。

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 午後からははりまや橋商店街へ母(90歳)と一緒に行きました。今にも雨が降りそうな空模様でしたので、歩行補助車は持って行きませんでした。
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 いつものようにコロッケ屋さんで夕飯用を買いました。
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 谷ひろ子さんのお店で焼き菓子とチョコケーキと芋ケーキを買いました。10円饅頭も買いました。
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 山岡さんのお店で冷やし御膳を買い、母と一緒に食べました。その折会社からの急用の電話がありました。急遽帰社することになりました。
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 それで活き活き100歳体操(介護予防体操)は母は参加しませんでした。
 自宅で父と一緒にビデオで100歳体操をしています。

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父も何とか歩いてはいます

 2016年9月23日の朝1番は父(97歳)の通院で植田医院へ行きました。宗に3回の点滴と診察をしています。何せ超高齢者ですので、少しでも体調のバランスが崩れますと大事になりますので。
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 腎性貧血予防の注射をしました。貧血は足元がふら付くので、高齢者には危険です。やはり転倒が1番怖いですから。父はこのところ以前にもまして歩幅が小さくなり歩く速度が遅くなりました。足も上がりません。
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 少しの坂道や段差は見守りが必要です。車への乗りこみと、シートベルトも自分で出来ますから、助かっています。2本足で歩いてくれませんと、狭い自宅は2階。3階の生活ですので、自宅では即暮らせませんから。
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 午後からは母(90歳)と一緒にはりまや橋商店街へ行きます。

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「こち亀」少年ジャンプ連載最終号を購入しました。

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  時流に随分乗り遅れていますが、少年ジャンプ「こち亀最終号」をコンビニで散歩のついでに購入してきました。ビックコミック・オリジナルと一緒に購入しました。
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 「こち亀」が連載が始まったのは1976年。大学4年時でした。最初はそれほど印象に残っていません。当時は「こまわりくん」という山上氏のギャク漫画が有名。そのまがいもののような印象でした。

 連載が続いて絶好調になってくるのは、80年代90年代からでしょうか?周辺のキャラクターも個性的であり充実してきます。また「こち亀」が凄いのは、当時の「はやりもの」を取り入れ、徹底的に解析し、取り入れていることです。物凄い取材力です。
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 うちにも「こち亀」単行本が21冊ありました。小学生時代の長男が購入したんでしょう。同時代の「ドラゴン・ボール」や「ジョジョの大冒険」などと一緒くたに並んでますから。
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 ドラマ化もされていましたが、漫画を超えることはなかったようですね。荒唐無稽の世界は作者独特のものですから。1つの時代が終わったと言うことでしょうが、近くにまた復活しそうな気がします。

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2016.09.22

国際信号旗掲揚ポールをセットしました。


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 JICA研修生(防災担当官)との意見交換会前の準備作業をしました。
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 そのなかの1つであります「国際信号旗」を使用した情報伝達手段を可視化するために、2016年9月21日に、下知コミュニティ・センター屋上部に、横田政道さんが国際信号旗を掲揚するためにポールを仮設・設置しました。

 ポールはウィンド・サーフィン用のマストです。FRP製で軽くて丈夫です。訓練旗などを掲揚します。
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 下知まち歩きの際に見えるようにします。下知地域ではデジタルな通信手段に過度に依存することなく、150年前の船舶間の通信手段である国際信号旗を活用して、自分たちの置かれている状況を、支援者に正確に伝達する考え方を実践しています。
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 国際信号旗とは

 http://futaba-bousai.cocolog-nifty.com/blog/2015/06/post-f73b.html

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2016.09.21

JICA受け入れ準備会


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 2016年9月16日は、JICA(日本の政府開発援助(ODA)を一元的に行う実施機関として、開発途上国への国際協力を行っている。)の研修生14人が、9月22日に下知地区を訪れます。

 バングラデッシュ、チリ、フィディー、グレナダ、ガイアナ、ジャマイカ、ナウル、パラオ、フィリッピン、ソロモンからの来訪者の皆様で、お国では防災担当の責任者です。8月初めから来日し、休日を除き、東北の各地や神戸などを巡回し、高知県へは9月13日から入って各地を巡回されています。

 昨年も高知大学大槻准教授が窓口になり、下知住民と交流をしました。今回は休日でもあり、午前9時半から午後17時までのみっちりの研修です。
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http://futaba-bousai.cocolog-nifty.com/blog/2015/08/jica-a5db.html

 予定では午前中は大槻准教授と高知市役所地域防災推進課の山中係長の講義があります。昼食は下知コミュニティ・センターのLPガス・災害時ユニットを利用しお湯を沸かして、非常食を食べます。

 午後からは3つの班で、下知地区のまち歩き。私は横田政道さんとのコンビで、二葉町。若松町ゾーンを歩いていただいて、低地の下知地域の実態を感じていただきます。
Tadasii

 下知地区のこれまでの活動については、坂本下知減災連絡会事務局長と、西村下知減災副会長が説明します。そして総括の意見交換ワークショップをします。丸1日のみっちり研修となります。

 今日の準備会は詳細に、準備の確認をしました。研修生の皆さんは、「海抜0メートルの島」である下知地域の現状をどう思われるのでしょうか?

Sima


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2016.09.20

台風16号は高知市沖を通過しました。

 2016年9月20日正午過ぎ。台風16号は予想より早く高知市沖を東へ通過したようです。風が午前中の北東から、北西の風に変りました。時折突風が吹きますが、10Mから15M程度の風が断続的に吹いています。
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 午前7時と同じコースで巡回しました。堀川水門付近は満潮を過ぎましたので、引き潮になりました。堀川水門も既に開門されていました。
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 鏡川大橋は通行量もいつもより全然少なめでした。鏡川の水位も目立って増えてはいませんでした。西の空は空いてきました。天気は急激に回復するでしょうから、今後北西の強風がしばらく続くでしょう。
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 強風で鏡川大橋北詰に植えてある桜の古木の枝が何本か折れて、道路の上に散乱していました。古い街路樹は危険ですね。結構大きな径の枝も落ちていました。
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 下知コミュニティ・センターへも行きました。避難者も5人一時期おられたようですが、2人帰宅され3人がおられるようです。一番雨風が強い時の午前10時過ぎに避難されて来られたひともおられたそうです。
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 市役所の待機する職員の人達も夜間・早朝は男性職員2人でしたが、日中は女性職員2人になっていました。

 下知地域は、各所で報告がFBにもありましたが、特に被害などは出ていないようです。何よりでした。
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大雨の中父は植田医院へ行きました。

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3日間病院が休みでしたので、雨の中父(97歳)を連れて植田医院へ行きました。市内の学校は休校ですが、病院はやっています。父は慢性腎不全なので週に3日点滴しないといけないですので。

 暴風雨が予想されたので慎重に運転しました。それほど風が強くはなかったので、父の車の乗り降りも大丈夫でした。

「血液検査の結果は良くなってますね。クレアチリン値も2・44から2.25になってます。ただヘモグロビン値が9.5(前回は9.4)ですので、次回から貧血予防の注射を少し強いタイプにします。」と植田一穂先生。

 植田医院は大雨でしたが混雑していました。自宅へ戻りますと、父の乗降をしていますと駐車場へ息子が迎えに来てくれました。「こんな暴風雨の時に出掛けることはないのに!」と怒られました。突風が来て息子の傘が壊れました。

 植田医院付近はビル街ですが風が強くはありませんでした。突風が時折吹くようです。

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長期浸水時の孤立者支援事業

長期浸水時の孤立者支援事業

 高知市の災害対策部が、南海トラフ巨大地震時に、長期浸水対策の1つとして「高知市内300ある津波避難ビルへ避難した人たちの情報伝達、状況把握のために、スマートフォンのWIFI機能を活用した「スマフォDFリレー」のシステムを試験導入したい。」との提案がされています。

 スマフォDFリレー(東北大学資料)

http://www.it.is.tohoku.ac.jp/innovation/01/

http://www.kke.co.jp/solution/pdf/RelayBySmartphone_WTP2016.pdf
 動画もあるようです。

 2016年9月16日の高知市議会にて、その提案を寺内憲資市議(公明党)と、浜口卓也市議(新こうち未来)が質疑を個人質問するという情報がありました。それで10時半過ぎに高知市議会へ傍聴に行きました。

 既に寺内市議のその事案の質疑は終了していました。浜口市議の質疑を傍聴しました。

 浜口市議は、「高知工科大学でも類似のシステムの開発中と聞いている。市長は県内の大学と連携していくと過去に市議会で答弁いただいている。

 東北大学が開発したシステムの運用のための予算を申請している理由はなにか?」と聞かれました。

「現在開発されているのは東北大学のみである。平成25年時から実験し、2.5キロの距離をメールで通信。平成27年では3キロの距離でのデータ通信に成功しました。

 無人飛行機にスマホを搭載し、より遠距離の通信を試験している。長期浸水で来津波避難ビルに孤立している市民への情報伝達と、情報収集のために導入を検討しているとのこと。それにともなう関連機器などの導入は不要。普段使いのスマートホンで、アプリをダウンロードさえすれば即導入が可能です。」

「周知徹底はできるのか?試験は高知市内でするのか?」

「高知市内で実証実験を行います。地理的特性で無理なら導入はしません。今回の予算措置は実験のためのものです。」とのことでした。

 わたしはスマートホーンを携帯していませんので、効果のほどはわかりません。若い現役世代がスマホを日々活用しています。またその世代は何かとせわしく地域の防災訓練にも参加しません。

 導入することになれば、その世代が地域で活動的になれば幸いですが。

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2016.09.19

台風16号対策をしました。


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今日は台風対策が必要ですね。

 日本列島を横断するように秋雨前線が張り付いています。それに向かって台風16号から暖かい湿った空気が吹き込まれ、長崎や熊本方面から四国に台風は進むようですね。

 この台風16号、発達して945HPになっていて、コンパクトですが非常に強い台風ですね。進路がだんだん南九州から四国付近に変って来ています。
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 台風の進路にあたる地方は、台風対策をする必要があります。暴風雨が強くなって慌てて対策するのは危険ですから。

 気象庁台風情報

 http://www.jma.go.jp/jp/typh/

 鉢植えを倉庫に入れたり、シャッターをブロックで固定したりすることはしないといけないでしょう。今日の平穏なうちに事前対策は必要です。
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 たとえ「空振り」に終わっても今日しないといけない作業だからです。
 明日の午後は台風らしい天気になるのではないかと思います。

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スマホ DE リレー は災害時に役立つのか?

 東北大学が開発した「スマホ DE リレー」というシステムは、災害時だけでなくふだん使いも出来そうな面白そうなシステムです。

http://www.it.is.tohoku.ac.jp/innovation/01/

 わたしはスマホを愛用していないので、今一つわからないところがありますが、スマホに内蔵しているWIFI機能を活用し、小型携帯無線のように情報を伝達し、リレーして行けるとのこと。

 活用できれば「災害時伝言」として有力ではないでしょうか?ただ飛ぶ範囲が何メートルなのか。ビルなどの障害物はどうなのか?下知地域で使用できるのかどうかは、実験しないとわかりませんね。

 動画にもその様子がアップされているようです。

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2016.09.18

二葉町・若松町JICAまち歩き下見


 2016年9月22日の午後からは、下知コミュニティ・センターを起点に下知地域を3カ所に分かれまち歩きをする予定です。JICA(日本の政府開発援助(ODA)を一元的に行う実施機関として、開発途上国への国際協力を行っている。)の研修生の一行がまち歩きをする予定です。

 バングラデッシュ、チリ、フィディー、グレナダ、ガイアナ、ジャマイカ、ナウル、パラオ、フィリッピン、ソロモンからの来訪者の皆様で、お国では防災担当の責任者です。8月初めから来日し、休日を除き、東北の各地や神戸などを巡回し、高知県へは9月13日から入って各地を巡回されています。22日は朝から晩まで高知市下知地域に滞在されます。

 下知まち歩きとしては、二葉町・若松町ですので、二葉町の西村と若松町の横田政道さんが案内することになっています。
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 コースは下知コミュニティ・センターを出発します。隣のガソリン・スタンドに海抜表示があります。「海抜0・2M」と表示されてます。交差点では市街地と海の距離の近さを感じていただきます。
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 交差点を右折し、二葉町の木造低層密集住宅地域を通過します。通過しますと高知県でも交通量が1番多い国道56号線(宝永町で国道32号線と交差し、北は高知インター。南は土佐道路)に出ます。5Mの高さ確認をします。
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 電柱と電話線が地中にあり、CABを確認します。南進し二葉町歩道橋から周辺を確認。交通の要であることを確認していただきます。
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 松村コーポ(地区指定津波一時退避所)の屋上へ徒歩で昇降します。
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 次に南進して堀川へ出ます。鏡川大橋の落橋防止対策を見ます。堀川水門を見学。海と市街地の隣接を再確認いただきます。二葉町から若松町へ入ります。防災行政無線の設置場所があります。
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 堀川沿いの県道と、市道との標高差は1・4Mあります。若松町も二葉町同様に低層の木造の古い家屋が多くあります。若松町にも7カ所の地区防災会指定の津波一時退避場所(二葉町には11カ所)がありますが、高知市指定の津波避難ビルは1か所しかありません。そのビル前を通過します。
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 隣町の稲荷町も同じような状況です。海抜0メートルの表示を眺めながら下知コミュニティ・センターへ戻ります。約40分の徒歩でのまち歩きコースです。
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父はゴルフ・リハビリに行きました。

 2016年9月18日は、父(97歳)は、ゴルフ・リハビリに行きました。時折台風16号の影響で強い雨が降る高知市。打ち放し場へ到着時には降りやんでいました。
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 いつものように自己流の体操をして、経口補水液(OS-1)で水分補給をしています。ゴルフクラブを杖替わりにして打席に向かいます。
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 ゆっくりと125発の球を休み休み打ちます。待機中わたしは読書タイム。」「石橋湛山評論集」(岩波文庫・青本「1984年初版)を読んでいました。
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 階段昇降も大変時間をかけています。頑張っていると思います。帰りも雨に降られずに車に乗りこめました。
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低地の市街地での避難は難しい


 2016年9月15日は下知地区減災連絡会の事務局長である坂本茂雄さんから連絡があり、午前10時半と午後1時半に実施された社会福祉法人すずめ共同作業所(高知市丸池町)での津波浸水避難訓練を見学しました。
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 すずめ共同作業所の西村昇所長と支援スタッフの山下祐一郎さんが、今回の避難訓練の責任者です。お話を聞きました。

 すすめ共同作業所 ホームページ

http://suzume-works.com/

「通所者が60人ぐらいいます。職員・スタッフが20人。80人の世帯です。施設は築40年を過ぎた1階建て。地震の揺れをやりすごしたら、避難場所にしていされているちより街テラスへ徒歩で避難する訓練をします。」

「歩行困難な車椅子の通所者や、常に酸素吸入が必要な通所者もいます。なんとか介助なしで避難行動が出来る人と、介助が必ず必要な人がいます。」とのことでした。

 訓練は大きな地震が発生。緊急地震速報が出ます。安全退避姿勢を取ります。職員と通所者の安否確認と点呼をされていました。すぐに避難場所のちより街テラスを目指しました。観察しますと比較的障害の軽い人で約15分。障害の重い人では20分かかりました。
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 道路も平坦で瓦礫もなにもない状態での避難に要する時間は15分から20分ほどでした。実際には瓦礫があったり、電柱が倒壊し、行く手を塞ぐこともあるでしょう。また道路が液状化し、通行できない可能性だってあるかもしれません。
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 実際には整然とした避難行動は難しいでしょうし、怪我されている人もおられると思います。早急に施設の建て替えと、高層化(5階以上)の建物は必要であると今日の避難訓練を観察していまして真底思いました。近隣施設へ安全に退避出来るためには、その施設の外回りに斜路が必要です。
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 丸池町は本当に4階建て以上の丈夫で高い建物は半径200M以内に皆無です。

施設の建て替え計画はあるようです。ただ早くて平成30年度末とか。地域としても声をあげないといけないですね。低地の市街地である下知地区全体の問題の1つとして、地域としても取り組む必要がある大事な問題であります。

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2016.09.17

夜須へ行っておりました


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 天気が案外よさそうだったので、プライベートに夜須へ行っておりました。台風16号の影響はさほどなさそうな感じでした。

 夜須へ着くとどん曇りで、かすかに晴れ間があります。サーファーの人達が既にいました。うねりは確かにありますね。

 ぎ装して海へ出ました。出艇時は、波が高く、風が弱かったので、苦労しました。沖へ出ますと波はさほどありません。
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 しかしだんだんと波が出る様子でしたので、午前中中心の2時間の海の散帆で今日は終えました。出来ないと思っていた海の散帆が出来ましたので、得した気分です。

 着艇してランチは朝購入していた訪のおむすびと卵焼き。保冷箱に入れておりました。高知大学ヨット部もお昼休みにて着艇していますが、波が高いので苦労していました。
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 山本さんとまたまたおっさん2ショット

 片付けして隣にあるヤッシー・パークの道の駅やすへいきました。山本宏之さんといつものおっさん2ショットです。

 ベトナム風の美濃傘を持って来ていただきました。
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 自撮り棒を通販で購入されたようです。
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 昨日本格オープンしたアースバーの店「MANA・MANA」。なかなかの盛況のようです。
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