兆民通りを大事にしよう
道路計画の工事で埋まりそうな箇所に、「兆民通り」と表示があります。明治時代の思想界の巨人である中江兆民の生家は新堀川から50メートルしか離れていません。
日本国の基礎を作るために、明治政府の要人は伊藤博文、山形有友らは長期間欧州視察旅行をしていました。最初はナポレオン3世の軍事国家をモデルにしようとしていたようです。しかし普仏戦争でプロシャに敗北内乱も起こりました。そこで彼らはモデルをドイツ帝国に求め、後に国民の基本的人権を抑制した大日本帝国憲法をこしらえました。
一方中江兆民は内乱のフランスに同時期にはいり、全く政府と対極の思想を構築していきます。パリコミューンの市民蜂起や活き活きとした市民の姿が兆民には焼きついていたと思います。旅先のインドやアフリカでの欧州諸国の植民地支配、帝国主義の過酷さを見学したことでしょう。
新堀川は生態系の「ゆりかご」であるとともに、思想家の「溜まり場」であったようですね。陽明学の岡本寧穂には1000人の塾生がいたとも言われ、武市半平太の道場も新堀川にありました。
中江兆民の思想をあらためて追体験する必要があるように新堀川に居ますと思いました。市民の話を聞かない強権的な体質が高知県政に見られるようです。「ぷらっとこうち」の県政情報課しかり。「新堀川」の都市整備課しかりですね。
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コメント
道路工事にともない昨日「兆民どうり」の表示が破壊されたとの情報が入って来ました。
歴史をぞんざいに扱う地域は繁栄したためしはありません。
投稿: けんちゃん | 2006.06.25 09:44