友よ冥福を祈る
今日は強風波浪注意報の中、夜須の海のセーリングで悪戦苦闘であることは既に報告していました。海でセーリングしている最中に携帯に留守電が入っておりました。中学高校大学と共通の友人であった山田和君が26日に亡くなったとの友人からの電話でした。
詳しい葬儀の日程がわからないと言うので、夜須から戻ってから知り合いに電話しますと、今日がお通夜で、日曜日が友引であるので葬儀は月曜であるとのこと。連絡してくれた友人も私も葬儀当日は週明けで月末に近いので行けないので一緒にお通夜へ行きました。
若かりし頃の山田和君の写真が祭壇にありました。多分学生の頃でしたが、よくうちで麻雀をしていました。あの頃の面影でした。連絡くれた友人は早稲田、山田君は東洋大学、私は専修で、もう1人は立教へ行っていた知人同士で卓を囲んでいました。
山田君のお父さんは戦前からの共産党員で治安維持法で検挙されたとか。山田君が中学2年生と時に癌で亡くなりました。生前にレーニン全集を息子に読ませると買い与えていました。お父さんの葬儀には当時の共産党県委員会の委員長他共産党関係者がたくさん来られていました。
高校は山田君は追手前、私は西高へ行きました。1年のときは高校生反戦会議。2年生の時は高共闘。3年生の時は落評という運動体をこしらえともに活動していました。そんなことが忙しくてともに卒業できなくなり、私は留年しましたが彼は退学しました。翌年私は専修大学へ進学、彼は1年遅れて大検で東洋大学へ進学しました。
ともに大学時代は社会運動は下火になっており、山田君はブント叛旗派の最後の方のメンバーでしたが、1976年品川公会堂での叛旗派解体集会でお互いの学生時代からの社会運動は終止符を打ちました。
その後お互い社会人になりました。かれは成績優秀で高知市役所も上級職に学科は受かりましたが、面接で落ちていました。結局伊野町役場に事務職ではなく、介護の現業職で入庁しました。お通夜も役場の人達が多く来られていました。病気になる前はいの町職員労組の委員長もしていましたし。
奥様と3人の子供達。彼もちゃん家族の営みは大切にしていました。ともに学生時代に「革命」の夢を語っていた友はもういません。私が毛沢東主義に取り付かれていた頃に既に山田君は戦後思想の巨人である吉本隆明を語っていましたから進んでいましたね。
お通夜の会場でそのことを思い出していました。奥さんも子供達も彼の活動家時代のことは知らないと思います。そのことを知る数少ない友人の1人として心よりご冥福をお祈り申し上げます。
| 固定リンク
コメント