人生の先輩を亡くした悲しみ
私が24歳の駆け出し営業マンでした。先輩は当時33歳でした。午前中は官公庁や現場を一緒に巡回し、日が落ちると塗装業者の事務所や自宅をともに訪問しました。午後9時過ぎまで営業して、下宿先へ帰れなくなり何度か鎌倉の自宅へ泊めていただいたこともありました。
先輩の取引先には当時はサーフショップやマリーナがありFRPやゲルコートガラスマットや塗料なども搬入されていました。江ノ島や厨子のマリーナやサーフショップの作業場へも同行したことでした。
マリーナでこちらは暑苦しいスーツ姿でいるのに、颯爽とスポーティな姿で出艇していくヨットやモータークルーザーを眺めていました。
先輩が「これが加山雄三のモータークルーザーだよ。」と大きなボートを指で示し教えてくれました。
廃墟になっていた茅ヶ崎にあったホテルパシフィクだったと思いますが、かつて上原謙が経営して破綻したのでは。近くの藤沢市下水処理場で仕事もしました。
鎌倉。藤沢、茅ヶ崎、厨子、葉山、横須賀、三浦は海が近く高知の地形や風土に似ていまして異郷にいる感じがしませんでした。休日に江ノ電から海側を見ますと沖合いには学連のヨットが100艇帆走、岸辺には数百人のサーファーが波を見つめていました。
高知へ戻り地形的に親近感がある夜須でヨットをはじめたのも先輩に湘南各地へ仕事も含め連れまわしていただいたおかげです。
(湘南の風景は野本靖さんのブログより)
横須賀米軍基地へも一緒に行き、そこの調達将校と「論争」したこともありました。米軍の威光をかさに居丈高な態度で物を言うので、「おかしいことをいうなよ!」と土佐弁で相手を指差してわめいたこともありました。そうすると「あのラージマンがなんか言っている」とあちらもわめいていましたが。身近で空母ミッドウエイも見ましたし。貴重な体験でした。
その先輩は長い闘病病生活の末昨日の未明に帰らぬ人になりました。人生の師匠であり、目標だった人です。その衝撃で私は落ち込んでいます。
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