悔しい思いでは忘れないようです
公立高校は今日が卒業式のようですね。
遠い昔のことですが、私は高校を卒業できない日々を送りました。出席日数も評価点も足りずに原級留置(つまり留年)したのです。
高校の場合は、大学と異なり落とした単位だけとれば良いというものではありませんでした。すべての教科を再履修しないといけないルールになっていました。
主任の担当教員は「君は学校へ来たところで絶対に卒業できない。男なら大検を目指し、卒業資格を取得し大学受験を目指しなさい。」と言われましたね。
結構当時は大検は難しかったし、頭も良いほうでないのでそうするつもりはありませんでした。
卒業式の日。私を含めた卒業できない5人が集り協議しました。「どうするのか」という事。
「俺は将来松下幸之助になるので、高校は辞めるからな。」と言いました。かれは喫煙を注意されて時に「タバコは社交のための道具。青少年が喫煙して何が悪いんでしょうか。」と話すなかなかの理論家ではありました。その後彼がどうなっなたのかは知りません。
大阪の私立高校へ転校するものが1人。室戸市の高校へ転校するものが1人。自衛隊へ入隊するものが1人ということでした。もう一度高校を再履修するというものは私以外にいませんでした。
当時一緒に活動していた別の高校の仲間達ですが、2人は素行不良もあり退学処分に。うち1人は今は北海道で手先が器用なので家具職人になっています。
私同様に留年した2人は2人とも退学し、大検を1人は目指し、資格を取得し大学へ進学しました。卒業後自治体職員になりましたが、昨年急逝しました。もう1人は市役所の臨時職員になり、今は正職員になり勤務しているようです。
ともかく苦い思い出の3月1日でした。
4月の登校日に学校へ行くと主任の教員が「もう一度来る」というのが想定外であったらしく、「何しに来たんだ」との声を発していましたね。
「留年したので登校しました。」と言いますと教員達は皆驚いていましたね。だれも私が来るとは思わなかったようです。その高校では留年は珍しいことでしたから。
暫く校長室の応接室で待たされましたね。臨時職員会議が開催され、30分待たされてうようやく所属のクラスが決まりました。
結局制服も、教科書も体操服も変化していました。教科書は購入しましたが、制服も体操服もそのままで1年間押し通しました。「連絡しないほうが悪いから」と。
1年後なんとか卒業できました。でも進学先の下宿を探すため3月1日は帰郷できませんでした。結局高校の卒業式は出席せずに終わったようです。
それから何10年後となりうちの子供も同じで、現地で合格発表を見るとか言うて居残っていたので、親だけが保護者と教員の懇親会に出ていましたし。なんか当事者でないので落ち着かない気持ちでしたが・・。
3月は移動の季節。年度もかわりますし。変化の時。
なんか悔しい思いでは何年経過しようが、つい昨日のことにように思い出されます。
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