心の自由民権ー人生主義とは? 9月26日(金)
西村 今月の「けんちゃんの今すぐ実行まちづくり」のゲストは衆議院議員の福井照さんです。福井さんは元建設省に勤務され都市問題に大変詳しい人です。取り付きにくいと市民には敷居の高い都市計画問題や、まちづくり問題をわかりやすくお話いただけると思います。
今日のテーマは「心の自由民権ー人生主義とは?」でお話をお聞きします。
福井さんはホームページのなかで「好きな時に子育てができ」「好きな時に親の介護ができる」「またなによりも大切な事、即ち自分の心のケアも好きな時にできる」、自分の人生を設計どおり生きることができる、そんな人生を支援することを本意とした社会を創らなければならないと思っています。」
そのためには
「今必要なのは枝葉のような個別の政策ではなく、より上位概念であり、個別の政策をコントロールする領域、即ち人間のあり方を根本から見つめ直すベーシックポリシー、或いはスーパーポリシーといってもいい領域であると考えます。
今の日本からこの分野がすっかり抜け落ちてしまっているからこそ、政治不信はむろんのこと現代人の根源的な不安、不満に立ち向かうことができないでいるのです。」と言われています。哲学のようですが、今一度解説をお願いします。
福井 今言われた途中で、皆さんは「気を失った」と思うんですけれども。
たとえば後期高齢者医療制度に対する国民のブーイングというのも、1つの現われなんですね。というのはやりたいことは、できるだけ長生きしていただきたい。1分でも1秒でもわくわく、どきどきして長生きしてもらいたい。そう生きてくださいね。と。
そのために必要な医療費は確保したいので、こういう仕組み(後期高齢者医療制度)にしますと。今まで市町村ごとにアンバランスだったしたので、県全体で1つにしますと。そういうことなんです。それだけなんですね。
後期高齢者とか。いきなり年金から天引きするとか。あまりにデリカシーがない。ということなんです。僕に言わせばデリカシーがないとか言う問題ではないんです。
つまり目的なんですね。僕も行政にいましたので、目的意識がはっきりしていなければ、すべて誤解を生んだり、うまくコミュニケーションができなかったりします。そういうことなんですよ。
今まで戦後経済を立て直す。地域を立て直す。それから貿易をもっと増やす。それが行政目的でした。もうそれは終わりました。もちろん外交や防衛も必要です。今からは「人間1人1人が1番大事。」「1人の人生がいかに守られているか」がお互いに分かり合うこと。「1人1人の人生が1番大事であると言う社会を作り上げること。」を目的にして政治も行政も魂の底から心を合わせていかないとならない。
というのを自由民権運動にひっかけて「心の自由民権」と最初から申し上げていました。自由民権の国高知ではそう言っているけれども、東京ではコミュニケーションできないので、「今までは経済中心の資本主義だったけれども、人間を大事にする。1人1人を大事にすると言う意味で、資本主義から人生主義へ。人生が1番大事。目的である。そんな世の中にしましょう。」と言っています。
いろんな事件も起こるでしょう。くっついたり離れたりするでしょう。殆ど苦しみの人生ですからね。でもそのたびに暖かく、支援できるような、人生の都合に合わせて行政が動いていく。そういう仕組みに変えなければいけないということです。
例えば市役所の部署(課)の名前も「20代課」「30代課」とか。そういう風でいいんです。今は縦割りも厚生労働省とか経済産業省とかの霞ヶ関の様式にあわせて県庁も市役所も組織になっています。
そんなんじゃなくて市役所ぐらいは私たちの人生にあわせた、段階に応じた課(部署)であったらいい。ホテルによくありますなんでも相談できます人が、そこにいます。そういう組織。行政の考え方。政治の世界もそういう風に変える。根本的に変えなければ今は立ち行かないのではないか。そういう思いの投げかけなんですね。
西村 同じような質問です。われわれ市民の側からしますと「政治家はどうしてあんな大きな家に住んでいるのだろう?」「政治家はどうして自分のことしか考えないのか?」とか「どうして政治家は金儲けできるのか?」と批判をします。
しかし政治家主催の国政報告会などをたまに聞きに行くこともあります。
国政の報告などでは「これこれの道路をこしらえました。どこどこの地域に国の交付金を取り付けました。」という「成果を誇示する」説明があるのが普通のようです。そういう説明を聞かないと市民は納得しないようですし。
有権者としては「地域に公共事業をたくさんもってきてくれ」と言うし、市民としては「政治家は自分のことしか考えないのではないか」とも言います。市民であり油研社の側が矛盾しています。
お立場上困っておられると思いますがそのあたりの聴衆の反応とか。最近の政治の動き。あるいは国政の動きなど。かなり市民というか有権者の意識は変わってきたのでしょうか?
福井 9年前に第1声を上げたときはすごい熱い思いがありました。お互いに、僕自身がすべて考えたわけではなくて、皆さんと一緒に話したことをだんだん昇華して言って水蒸気になったんが「心の自由民権」というものです。
そういう意味から言いますと高知県民はひじょうに進んでいるんですよ。ただそれは「潜在意識」なんですね。それをはっきり意識として顕在化して、表面に出てきて、だからこういう考えだ。と意識にのぼるというところまでは高知県民もそうだし、ましては日本国民全体はいっていないです。
私も行政にいましたから、けっして政治家は尊敬しておりませんし。尊敬していない政治家にどうしてなったの?と家族に言われたりして。ですから政治家になったつもりもなるつもりもないですけれども。志はそういう日本全体を変えるとか。日本が世界に恥ずかしくない国にするとか。
文化をつくる。ということをずっと都市計画をしてきましたので。文化をつくる。歴史をつくる。そういうことを生涯の仕事にしようと。やっていました。
政治でもヨーロッパの政治家はほんの一言で、文化的知性と教養を感じさせることがあります。バチと言ったりします。そういう発言をする政治家は未だかつて日本にはいませんでした。
あるいはパリの大改造をしたのは政治家の発想、デザインでやったのだけれどもそういう政治家は日本にはいません。
戦前に後藤新平という人がいました。歴史的にはただ1人だけです。そういう意味で知性と教養。文化をつくるという様な政治家が1人でも2人でも出てきたら最高ですし。
私の訴える「心の自由民権」というのは人の幸せとはなにかだけを毎日24時間考える政治家がもし100人いたら、抜本的に日本は変わります。
幸せとは何かを考えず。なにも考えないでずっとこの100年間来ました。だから根本的な目的意識を持つことが未だにない。と感じています。
西村 福井さんは「私の政治信条」のなかで「ユーバーポリテック」=超政治、次世代のための政治。哲学・思想・歴史観・宗教性・時代認識・長期展望を備えた政治と言われています。
それはグローバルな観点から、ローカルのことを考えることなのでしょうか?
福井さんとは考え方が違うかもしれません。
昔石橋湛山という政治家がいましたが、宗教家であり、エコノミストであり、「小日本主義」という大局観がありました。植民地主義を放棄しアジアの国々と共存して反映する展望をきちんと持っていました。
自由民権運動の先駆者を先祖に持つ高知県民は「ないものねだり」をせず高貴な目的を持って活動をしようよということなのでしょうか?
高知県民は潜在意識で高貴な目的があるとのことでしたが、表に出てくる兆候は出てきたと思われますか?
福井 十分出てきていると思います。
こんなことを言いますといつも怒られています。政治の世界には「階層」があります。
まず「選挙のレベル」があります。次に「政局のレベル」があります。この前の国会のような。それから「政策のレベル」があります。その次に「政治のレベル」があって、その次に「「ユーバーポリテックというレベル」-大政治という歴史認識があります。
私たちが付き合っている政治家の人たちは、殆ど選挙のことしか考えていない人たちとしか付き合っていない。ということですね。
今変わりつつあるのは「環境」です。2人の話は共通しています。地球環境で自分を見つめ直すこと。日本人が世界に誇れることは「自然との一体感」です。
今分子生物学で60兆個の人間の細胞があります。100兆個の微生物がいて、長くても半年。早ければ3ヶ月くらいで酸素も炭素も水素も私たちの体の中で入れ替わります。
だから食べるのです。食べたものはすべてわたしたちの血になり、肉になり脳細胞になり、すべての細胞になります。それで入れ替わったものが便や尿や汗で排泄されます。半年前の自分と今の自分とは分子レベルでは全然違います。なにも残っていない。すべて風になっている。
これが自然との一体感を日本人は持っている。だから地球を大事にする。家族を大事にする。地域を大事にするのです。そういう発想は欧米人にはないのです。
西村 2000年以降日本の自殺者は3万人を越えています。少子高齢化社会で人口減少になっている日本で自殺者の数が減らないのはなぜなのでしょうか?
小泉内閣の構造改革により「格差社会」がより大きくなったからなのではないのでしょうか?3万人の自殺者の数は異常であると思います。
福井 異常事態です。3万人の下にピラミッドがあります。うつ病の方が30万人。うつ病予備軍が300万人。日々苦しんでいる人が3000万人。そういう大きな山があり、水面上に出てきているのが3万人ということです。
ですから何千万人という人々の心が病んでいるのですね。と言うのは最初の話しに、戻りますが、「思いやり」とか「尊厳」とか、日本人が農耕民族としてずっとしてきたここと。助け合って生きてきている。助け合いいつくしみあい共同して働いて、同じ分け前で暮らしていた。
そういう農耕民族としての暮らし方が、小泉ー竹中路線の「新自由主義」のリベラリズムでぶち壊されました。それで格差が出てきました。それで心が病んでいる。というのはまさに至言だと思います。そのとうりだと思います。
ですから自殺者対策とか、うつ病対策とかなんかではなくって、今の私たちの暮らし方の根本原理というものをもう一回見つめなおして、日本人の良さは、「一緒に助け合って生きていくんだ。」と。同じ分け前で生きていくんだと。
それは社会主義だと言われようが、そうなのです。
西村 それは以前福井さんが言われていた「ソーシャル・キャピタル」という考え方でしょうか?いわゆる共同体意識でしょうか?
福井 共同体ですね。
西村 僕らも中途半端にしか習いませんでしたが「ゲマインシャフトとかゲゼルシャフト」とか。ゲマインシャフトのようなものでしょうか。
福井 中国人の諺に「日本人に気をつけろ。社会主義者になってしまうぞ。」というのがあります。それぐらい世界では日本は「社会主義国」だったと。
つまりいかに平等に「分け前」をもらっていたか。かつての日本。つい20年前、10年前までの日本です。
それはつい30年前、40年前までは福井さんの田んぼもご近所全部が出て、田植をし、稲刈りをした。同じ分け前で、同じ所得で。助け合って生きてきました。というのが日本民族の原点です。その生き方を忘れてはいけません。
西村 ユニバーサルな社会の実現は可能なのでしょうか?そのためには市民1人1人が差別も偏見ももたないユニバーサルな考え方にならないと実現しないのではないのでしょうか?
そのあたりはどのようにお考えになるのでしょうか?
福井 ユニバーサル・デザインの根本はそれこそ、普段の普通の人がいかにラクチンで、気持ちいいなというデザインができるかということです。
道路にしてもLRTにしてもそういうことだと思います。
ですから原点で、いかなる人も同じように、同じような気持ちで、造ったりできるかというふうなことです。
すべてのひとが共同して、ソーシャル・キャピタルですね。すべてのひとが参加して同じ喜びを味わえるような。そんな場をどうやってつくれるのか。それがユニバーサル・デザインです。
西村 先日も福井さんは高知福祉機器展も見学行かれたようですね。人間の尊厳を保つための福祉機器とか。機器をいろいろ体験されたうようですが・・。
そのあたりの感想などはいかがでしょうか?
(福祉機器店を見学される福井照さん)
福井 個人的にはいろいろ失敗したことがありました。車椅子をエスカレーターに乗せる機械をつくろうと思ったりしていました。本当に難しいんですよ。
ものすごく微細な技術が必要で、遅々として完璧にならないのです。実際開発に携われておられる技術の方々は頑張っても誰が乗ってもスムーズに行くなと。
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