高知シティFMでの最終収録(1日目)
最終番組の収録は、高知シティFMの朝の番組を担当している笹岡和泉さん、富山秋桜里(しおり)さん、西村健一と高知シティFMディレクター戸田健史さんとで行われました。放送予定は11月24日から27日までの4回分です。
11月24日(月)放送分
富山 おはようございます。週の始めの月曜日。しおりのどこでもトラットリアです。高知シティFMから元気に放送いたします。高知を元気にしようと活躍しているゲストの方と楽しくおしゃべりする。高知初心者の高知初心者のための、高知初心者による初心者のためのラジオ。もちろんベテランさんでも楽しめます。
MCは高知大学2回生、高知県民2年生の富山秋桜里(しおり)です。では第11回のゲストをご紹介しましょう。今週はゲストが3人います。1人ずつ紹介したいと思います。
ます西村健一さん。
西村 おはようございます。
富山 そして笹岡和泉さん。
笹岡 おはようございます。
富山 そして最後は大西みちるさんです。
大西 おはようございます。よろしくお願いします。
富山 なぜ今日は豪華なゲストがスタジオにいるのかと言いますと、
大西 豪華と言われると恥ずかしいです。
西村 本当に恥ずかしいです。
富山 きらきらと豪華なゲストがいるのかと言いますと、高知シティFMの開局当時の朝の番組で続いて来ました「どこでもシリーズ」が今週でなんと最終回ということになってしまいました。
そこで今までの番組の歴史とか、これからのこととか。総集編ということで皆様に集まっていただきました。今週はそんな感じでいきたいと思います。
どこでもシリーズのリーダーともいえる高知シティFMの「語り部」である西村健一さんのほうから、「けんちゃん」と言うことで呼ばせていただきます。
開局当時から番組をやられてこられました。開局はいつだったのでしょうか?
(けんちゃんの吠えるウォッチングの収録風景です。)
西村 2000年4月2日であったと思います。
富山 ということは8年前ですね。
西村 8年前です。8年8ヶ月前になりますね。
富山 私がちょうど中学校へ入学した頃ですね。
笹岡 ショッキングですね。
西村 大昔ですね。
富山 ちなみに私、今月二十歳になりました。
大西 おめでとうございます。
富山 ありがとうございます。そんな時に最終回ということですね。
けんちゃんにお聞きしますがラジオ番組をやるようになったきっかけはなんだったのでしょうか?ラジオが好きだったりとか?
西村 全くそんなことはありませんでした。それまではラジオ局とは全く無縁な人間でした。高知シティFMのスタッフでもなく、株主でもありません。たまたま開局当時(2000年)にシティFMの経営者にお知り合いがいました。
私時折高知新聞の「声・ひろば」欄に辛らつな内容を投稿していました。その辛らつな文章そのままにラジオでやってみないかと言う話がありました。
最初は週に1回の30分番組をやってほしいというお話でした。ところが朝のドライバー・ゾーン(通勤時間帯)、車で通勤しながらラジオを聴かれている人たちへのローカル枠の番組をやってみたらということになりました。
月曜から金曜日までの朝の15分番組をやってほしいということになりました。いつのまにか話が変っていました。ちょうどその時間帯はNHKテレビの連続テレビ小説の時間帯ですね。その時間帯にぶつけるという無謀なことになりました。
富山 それが「けんちゃんの吠えるウォッチング」という番組ですね。
高知シティFMのホエール・ステーションのロゴマークの「鯨」を意識されたのでしょうか?
西村 たまたまです。「吠える」というのが、鯨の「ホエール」といろいろ「吠える」と言うのとが重なったのです。高知市の1市民であるけんちゃんが吠えている。喋っている。
お相手のシティFMのパーソナリティが富山さんの長崎出身の先輩になられる細井春菜さんでした。
細井春菜さんは2000年3月に高知女子大を卒業されたばかりの方でした。その方とコンビでけんちゃんと春菜さんのコンビで「けんちゃんの吠えるウォッチング」を始めました。
8時15分から30分までの枠で、毎日月曜日から金曜日までやっておりました。
富山 8年間ですか?
西村 それは「けんちゃんの吠えるウォッチング」は3年間でした。期間は開局時の2000年4月から2003年の3月末まででした。お相手の細井春菜さんが夕方の番組へ移られたので、「吠える」お相手がいなくなったからです。1人で吠えていても面白くありません。
それで2003年の4月から「けんちゃんのどこでもコミュニティ」という名前にしまして、今の富山秋桜里さんや、笹岡和泉さん、大西みちるさんがやってこられた番組の形態ですね。ゲストをスタジオにお招きしていろいろお話を聞く「トーク番組」になりました。
つまり「吠えて」いたけんちゃんが「聞き手」になって、いろんな分野で活躍されている人たちのお話を聞きだしました。これが「どこでもシリーズ」の始まりでありました。
富山 そこから「けんちゃんのどこでもコミュニティ」、「けんちゃんのどこでもブログ」そして今の「けんちゃんの今すぐ実行まちづくり」になっていったんですね。
それそれ番組タイトルにこめられた意味はどんなものでしょうか?
西村 「けんちゃんのどこでもコミュニティ」の場合は、高知県内外でいろんな分野で活躍されている人たちをゲストに来ていただきました。そのなかには政治家の方、学生、アーティスト、福祉関係の人。その他いろんな分野の人がたくさんいます。
その番組ゲストに来ていただいた人のなかに大西みちるさんや笹岡和泉さんがいました。
「どこでもコミュニティ」は我ながら「無謀な番組づくり」をしていました。
とにかく毎週ゲストを呼びまして収録をする。その段取りをします。わたしは2000年の開局当時は全くパソコンが出来ませんでした。毎日毎日これだけ話しているから、それを番組だけで終わりというのはなんとも「もったいない」と思いました。
ゲストの人たちも多忙な中時間を裂いて、貴重な話をしていただいている。なんとか記録に残せないか。ホームページに出来ないだろうか。と。そして自力(竹内隆志さんらに指導を受けて)で無謀にも自分のホームページを作成しました。
「どこでもコミュニティ」時代に毎週、毎週のゲストとのトークをそのままでは、放送されるだけではもったいないと言うことで、休みのたびにホームページを作成していました。
番組収録をテープで録音し(テープは自分で購入し)、休日に聞き取り、テープおこしをし、要約筆記としてテキストファイルに打ち出していました。
富山 毎週それを繰り返していたのですか?
西村 番組は月曜から金曜まで5回分ありますね。1回分(1日分)がテープおこしと要約筆記に1時間かかります。5回分ですから約5時間かかります。サイトを作りこむのに(写真や画像の作成・サイトの編成とアップロード作業)に約3時間かかります。
休日は朝の3時から起床してその作業をしていました。5時間ぐらいでテキストファイルに打ち出し、それから夜須へ行ってヨットをしていました。午後3時頃に戻ってきて4時ごろから夕食前までサイトの作りこみ作業してアップロードしていました。まあそれを「どこでもコミュニティ」時代は3年間していました。
富山 それでは休みの日が全部つぶれてしまうのではないですか。
西村 そうですね。疲労が重なり2度ぐらいひっくりかえりました。(めまいがして朝起きれない状態。内科、耳鼻科、脳外科で診察したら酷い肩こりで首の血管が収縮。脳へ血液が回らず貧血状態になっている。)との診察でした。
それで「どこでもコミュニティ」を3年間で終わろう。1人でこの形態でやるのは限界であると思いました。(プロではなく仕事は仕事でしていますので)
それで後継というのはおこがましいのですが、大西みちるさんや笹岡和泉さんに助太刀をお願いしました。それが「どこでもシリーズ」のそもそもの始まりでした。
富山 今まで8年間続けられて番組は何回ぐらいされているのですか?
西村 週に5日。月に20回。年間240回ですね。6年間「吠える」と「どこでもコミュニティ」を毎日していましたので1440回はしたようですね。もっとしているかもしれません。
それと週1回ペースになって「どこでもブログ」と「今すぐ実行まちづくり」は年間50回ですからどこでもが2年で100回。今すぐが8ヶ月で40回で合計140回。
正確にはわかりませんが8年8ヶ月で1580回程度は放送したのではないでしょうか。
富山 わたしなんかまだ11回目ですね。
西村 わたしは長くしましたが、お喋りは全く上手くならずに終わりますね。とっても残念です。
富山 1500回以上の番組の中で思い出のゲストとかはいかがですか?
西村 それはぱっと言われましても一杯ありすぎまして即答できません。やはりいろんな立場の人の話を偏見なしに自分が聞く。例えば右の考え方があれば、左の考え方がある。
代議士もいれば首長さんもいる。学生もいる。いろんな人たちの話を聞いたことが私にとりましてはとても勉強になりました。
それからそれをまとめてホームページやブログで公表しましたので、そこからまた新しいコミュニケーションが生まれましたし。
この8年間と言うものシティFMの番組が「生活の1部」になっていました。番組づくりと、その後のホームページ造りに追われて、全く夜の街へ遊びにも行きませんでしたし。おじさんがそれをしていたことにはそれなりの効用はありました。
おんちゃん同士でいつも同じようなメンバーと愚痴を言いながらわいわい過ごすのではなくて、若い人とか、立場の異なる人との対話が主体でしたので、ひじょうに世間が広くなりました。
窓口が広くなりました。自分としてまだまだ総括は出来ませんけれども、物凄く勉強になりました。
富山 1500回以上もやっただけある重みのあるコメントですね。
西村 それほど長くやるつもりはなかったし、1年続いたらいいかなと思いました。思いもかけず長く続いてしまったと言うことです。
時の流れで始まった番組で、結果として8年8ヶ月も続いた番組でした。
プロでもないし。市民サポーターとしては自分なりに精一杯やれたのではないかと思っています。
富山 けんちゃんどうもありがとうございました。次は笹岡和泉さんの話を聞いてみたいと思います。
初めてラジオに出演されたのは「けんちゃんのどこでもコミュニティ」と聞きましたが?
笹岡 そうですね。2004年の7月頃であったと思いますね。けんちゃんにスタジオに呼んでいただいて熱く語りました。
富山 そのとき自分がラジオ番組を担当するなんて思いませんでしたか?
笹岡 そうですね。そのときは全く思いませんでした。後にけんちゃんから「ラジオ番組やりなさいよ」と言われました。
まさか冗談だろう。と思っていたら「今度打ち合わせするからね。」となって「本当だったんだ。」という感じでしたね。
富山 ゲストに出られて1年後ぐらいでしたか?
西村 詳しい日時は記憶にありません。自分自身が1人で開局以来毎日の番組枠で、朝の帯番組を月曜から金曜日までやっていましたし。
ちょっとハードワークになりすぎまして(特にどこでもコミュニティが)2回ぐらい体調不良でひっくり返ったことがありました。
これはとても出来ん。俺も年かな。それで笹岡和泉さんのように若くてパワーがあってガッツのある人に番組をお任せしたほうが良いのではないかと思いました。
そういうことで「後はよろしく」ということで笹岡さんに頼み込んだことがありました。
笹岡 けんちゃんが前半の話にありましたように、番組をホームページに仕上げていましたし。ゲストとの話をすべて上げていました。
毎週、毎週継続してされていました。「同じことは出来ません。」ということを条件に引き受けることになりました。
富山 番組のゲストに出たことえを忘れたぐらに「番組をやってくれ」とのオファーがあったときはどんな気持ちでしたか?
笹岡 その間も番組出演者交流会なんかで何度かお会いする機会があり、接点もありましたので「本当なんだな」と「本当にやるんだな。」と現実味が帯びてきましたね。
で、2006年4月からスタートということで気がつけば2年8ヶ月もやりましたね。
富山 やりましたか。今まで印象に残っていることとか、始めのほうでのこととかは・・
笹岡 そうですね。全く今までこういうラジオ放送なんかはしろうとでした。最初はどうなることかと思ったんですが、ちょっと周りに言わせれば「卑怯な手段」と・・。
大西 そうです。
西村 プロが和泉さんの横についていましたから。
笹岡 たまたま堀内佳さんと知り合いで。堀内佳さんに「ラジオ番組やらないかという話があるのですが・・」と相談しました。
そしたら「是非やってみたら」と言われました。
堀内さんも後押しした以上、フォローしていただかないわけにはいかないだろう。という流れで半年間強力な助っ人として、出演していただきました。貴重な期間がありました。
最初の頃は、本当にがちがちで、今日はなにをしゃべろうか。という感じで。せっかくゲストの方がリラックスして来ていただいているのに、私の緊張がゲストに伝染してしまいました。2人で緊張したりしましたね。最悪の事態もありまいsたね。
富山 わたしもそれはありました。
笹岡 そういう期間も経て、堀内佳さんにも「伝え方はこうしたほうが良いよ。」とか「そのままで活かせばいいよ。」とかご指導をいただきました。徐々に自分なりのスタイルみたいなものが、出てきたという感じですかね。
富山 堀内佳さんは何をされている人なんですか?
笹岡 あらま。
大西 長崎出身で高知2年目ですからね。
笹岡 シンガー・ソング。ライターの人です。高知で歌の弾き語りをしている人です。是非歌を聴いてみてください。
富山 シンガー・ソング・ライターの方が後ろについてされていたのですね。
笹岡 某局で20年以上ラジオ番組をされている人です。プロですね。
大西 長崎で言えば福山雅治ですね。高知の福山雅治です。
富山 それは覚えておくべきですね。
最初はばたばたしたのでしょうが、ラジオ番組を楽しめたりしたのでしょうか?
笹岡 だんだん相手のよさを引き出さなきゃとか。自分が気を張っているときは一生懸命で大変でしたが、だんだん途中から「いいや!」となって「自分が楽しんじゃえ」となりました。
ディレクター泣かせで原稿を途中から書かなくなって、そのとき、ゲストの人が話してくれとことを本当に聞きたい。もっと聞きたい。
「え、そうなんですか。わー。」と「次どうなんですか?」とどんどん聞いているうちにアドリブ満載で話が盛り上がりました。
そうしているうちに本当に、今年ぐらいからですかね。ゲストの人が「和泉さんがリードしてくれて凄く話しやすかった。ありがとう。」と言って帰ってくれるようになりました。
それが「よっしゃ!」という感じで私も楽しめてましたね。
富山 お話上手になった感じですか?
笹岡 アドリブ上手ですかね。
西村 最近は絶好調ですよ。のりに乗っている。
笹岡 週にすれば67週ですね。結構1回のテーマでスタジオの外へ突撃取材も行きましたし。何人かの方にお声をいただいたこともあります。
のべ80人ぐらいの人に出演いただいたのではないかと思います。
富山 思い出に残るゲストの方は?
笹岡 めちゃたくさんありますけれど・・私は切り口が福祉住環境とか、ユニバーサル・デザインとか。でありました。
番組をしているうちに、番組のテーマが「笑顔をつなごう」でしたので、笑顔って「ノン・ジャンル」ではないですか。福祉分野の人もいれば、音楽関係や、絵を書いている人、パフォーマンスとか活動している人がいたりとか。須賀ジャズダンススタジオの人とか。
ミュージカルさながらにわーとやってくださって、スタジオがびりびりしていました。外での取材とかね。
後残念なのは「新コーナー」が始まったばかりだったんですね。これからと言うときにです。面白くなります。次回をお楽しみに。で終わりになりましたし。
富山 どんな新コーナーだったんですか?
笹岡 中心商店街の若い商店主の方と、ペアで一緒にユニバーサル・デザインの街と、中心商店街もそういう視点もやっぱり大事だし。
どうしたら盛り上がるのか。2人の観点で盛り上げよう問いコーナーもつくりましたが・・。1回目が終わったところでしたね。
どこかでまた始まるかもしれません。
とっても思い出深いことがたくさんあります。
富山 2年8ヶ月でちょっと残念なこともありましたね。楽しかったですか?
笹岡 いろんな出会いがありました。「ラジオ出てください。」ということでつながりが新しく出来たりしました。これは私の財産になっていますね。
富山 しおりのどこでもトラットリア。今日はどこでもパーソナリティズから西村健一さんと笹岡和泉さんからお話をお聞きしました。
明日は大西みちるさんのお話と、ディレクターをずっと努めてこられた戸田健史さんにお話を聞いていきたいと思います。
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