「排除の論理」では大きな流れはつくれない
8年8ヶ月に渡る高知シティFMでの番組づくりが終了しました。まだ「総括」はできていませんし、気持ちの整理もついてはいません。「生活習慣」は簡単には修正できないものですね。
考えられる立場の人たちのお話を聞きました。まず出演交渉でのやりとり。出演前の質問項目の提出。収録時のやりとり。収録テープを聞きながらの要約筆記。ホームページやブログの作成などで、出演者の意見を深くきちんと聞きました。私心をいれず忠実に再現してきました。
確かにわたしは極論を言うし、過激なところもあります。でも立場はフレキシブルであり、意見はきちんとまじめに聞き取り、まとめてきました。
その一例の どこでもコミュニティゲスト一覧(参考)
そのわたしが言いますが、現在の日本の市民運動や社会運動はあまりに「狭く」「党派的」。すぐに異論を排除します。異端を排除したがる1神教の原理主義と同じ体質。
日本は八百万の神の国。いろんな考え変え方があってしかるべし。また立場により動けるときと動けないときがあります。みんなが自分の考えに同調し、同じように動かないとすぐに非難し、排除したがるグループや運動体の多いこと。だからいつも負け戦ばかりしているのでしょう。
国民政党である自民党はある意味、寛大な政党。考え方はなんでもあり。政権維持ー交付金の分配のみが根拠。それが小泉純一郎あたりから「原理主義政党」になり、排除の論理で一時的に勢いがましたが、今はその副作用でがたがた。政権維持も風前の灯火。
少し考え方が違うからとすぐに排除したがる運動体がありますね。絶対に大きくなれません。ですので必ず敗北します。人を大事にしない市民運動、社会運動では天下は取れません。
人間の解放を唱える思想集団が、人を抑圧し、人を殺し続けることもありました。異論を受け入れる度量のないものが市民運動や社会運動をしてはならないのです。
わたしはある意味、アバウトですので、だいたいの異論は受け入れます。そろそろ社会運動を再建するためにら来年あたりから活動をしようと思います。
(世代も異論もあるのでわいわいトークすることが1番楽しいのです)
| 固定リンク
コメント