40年前の1・18
高校受験前の多感な時期。中学3年でした。毛沢東主義に共鳴し、小林多喜二の「蟹工船」の読書感想文で「大人のなれば革命家になりたい。」と書いて田舎の中学では問題に。
「高校へ行っていいのかどうか?」なんでもないことをうじうじと当時考えていました。
安田講堂攻防戦は当時テレビで生中継されていました。全部見たのではないか。その感想文が保全されていないのは残念。(いつも保全されずどこかへ行ってしまう。整理ができない私)。
「疾風怒濤の時期」であったから高校時代は嵐の時代でした。入学後は学外での活動に熱中するも当時の共産主義思想の「抑圧的な」思想には、反論できないものの違和感を感じ、結局関心はあるものの打ち込めなかった。
もし信じきり打ち込んでいたら、あの時点で赤軍派か連合赤軍に参加し、この世から消えていたでしょう。反戦運動は大きな希望と夢でしたが、同時に個人の自由を抑圧するセクトの影響は耐え難いものでありました。
今にして思えば「人間を解放する思想が、人間を抑圧する組織」で運営されていたのです。それは旧左翼の社会党や共産党もそうでしたし、新左翼といわれたセクトもそうでした。
その原因はロシア革命の立役者レーニンの考案した人民を抑圧する組織原理である民主集中制であると今は確信しています。
参考ブログ記事 共産主義の悪癖はレーニンだ
結果的に高校を3年で卒業できなくなり4年も行ってしまったのも、その始まりは「1・18安田講堂攻防戦」を見ていたこともあります。田舎の中学生にも多大な影響を与えていました。
その40年後の軌跡をなぞったNHKの番組「安田講堂落城 "あの日”から40年学生たちのその後」はなかなかの作品でありました。あらためて考えさせられます。
わたしには華やかな闘争履歴はありません。主に高校生時代だったからです。少し軌道をそれれば退学処分でしたし、自主退学した仲間もいました。ふらふらしていた私を商売しながの多忙な中、両親がフォローしてくれました。だから留年し卒業し、大学へも行けました。両親が世間体を気にして高校を中退させたり、転校させたりしたらまた人生が変わっていたと思います。(今は超高齢者の両親を私がフォローしていますが、当たり前のことです。)
「同窓会」をやっている人たちはある意味幸福な人たち。自分には高校時代の「同窓会」は存在しません。行方不明になったり、逝去した仲間のことを思い出すと心が痛みますし。思い出したくないし、周りの皆様にお話しても「言葉が通じないし」。
あの当時勉学を投げ打ち必死でやろうとしていたこと。これをもう一度考えてみたいです。立花隆氏は「40年ぐらいたつと語りだす」といいましたが、若くてぶれていた時代のことだけになかなか「総括」なんてできません。
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