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2009.02.07

15歳と19歳の春

 中学時代に大変お世話になった恩師を訪ねました。ご主人にも世話になりました。残念なことにご主人は昨年他界されました。

 40年前の2月に中学生時代初めて恩師の自宅を訪問し、話をしたことがありました。15歳でした。今や私は「立派な」(戸籍年齢では)中高年親父ですが、人生の岐路にいる難しい立場にいます。「古きを訪ねて新しきを知る」という言葉もあるし・・。

「君は3月1日にうちへ来て卒業式(高知の県立高校はそうです)に出席したくない。うちの主人が懸命に説得し自転車に君を乗せて卒業式へ連れて行ったことがあったよ。」と恩師に言われました。

 今思えば赤面する話。しかもそれだけお世話になっていながら自分の記憶の中では思い出せません。いやはやです。その卒業式は19歳の私です。私はある県立高校を3年で卒業できなくなり、ただ1人で(4人はすべて退学)恥を忍んで原級留置(留年のことを言います)しました。

 4月の登校日に高校へ行きましたが、それまでなんの連絡も高校からはなく(担任教師は自宅へ来て自主退学を薦めた)どうしていいかわからないし、仕方がないので職員室へ行きました。そしたら教師が「お前何しに来たのだ!」と言いました。「留年してもう一度3年生をしに来ました。」と言いました。

 「お前を受け入れるかどうかで臨時の職員会議を開かんといかん。まさか来るとは。結果が決まるまで応接室で待ってもらうきに。」と男性教師は狼狽しながら言いました。

 30分後呼び出されクラスが決まり留年生活が始まりました。大学と異なり当時は高校の場合はすべての教科が体育にいたるまでやりなおし(再履修)でした。大学のように落とした教科だけ再履修すれば良いものではありませんでした。ある意味大変です。

 体操服は前年のまま。教科書も異なっていました。教科書を新たに取り寄せ来るまで1ヶ月かかりました。それほどの屈辱がありました。おまけに留年した春休みには連合赤軍事件があり、毛沢東思想が間違っていたことを思い知らされ、また当時属していた運動体が分裂し、対立抗争していました。一緒に活動していた仲間2人は退学処分になり、その処分を下した校長が留年した私の高校へ校長として転勤して来ましたし。気分は最悪。

 ま、いろいろありましたが、自分なりに猛勉強し(意地もありましたし)なんとか大学へも進学でき、高校も卒業できるよういになりました。

 たぶんその高校の卒業式へ行きたくなかったのは、1年前はぼろかすに言っていた教師たちが、大学へ合格したとたんに豹変し賛辞を送ってくれたことへの反発でありました。
「ふざけるな!」という意地がありました。

 でも中学時代の恩師のご主人に説得されしぶしぶ卒業式へ行きました。結果は行って良かったと思います。ただ我を張るだけでなく、他人の意見も聞き、躊躇しながら生きていくことも大事であると今思います。それは年をとり私もおっさんになったからです。親にもなりましたし。

 しかし40年近く前でも無礼な発言をした教師は許せません。そういう自分が危険ですので高校の同窓会は行かないことにしています。無礼な発言をした教師は謝罪をしていないので見つけたらその場で追求するでしょうし。そうなれば同窓会は瞬時にわきあいあいムードではなくなりますし。

 おっさんになりましても「マグマ」は煮えたぎっているのです。今頃になると思い出しますね。

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