なぜ兼続は西軍に味方したのか?
近くの図書館で「天地人・下」(火坂雅志・著)を借りて読みました。NHKの番組では今週は信長の後に秀吉が天下を統一し、上杉家との関係が親密になっていくようです。
本では上杉家が秀吉と連合し、豊臣家の有力5大名の1つとなり、支えていきます。小田原北条家滅亡後、遠州の徳川家康を関東に移転させました。家康の力を恐れる秀吉は、東北と関東の要である会津に上杉家の国替えを要請します、しかも120万石に増額して。それには石田三成の働きかけもあったのでしょう。
中央集権的な豊臣政権を作ろうとする石田三成は私心こそありませんが、言動や振る舞いが誤解され、秀吉の子飼いの武将である加藤清正や福島正則に恨まれ対立します。そこを徳川家康にからめとられ、遂には秀吉死後わずか3年で関が原の戦いになりました。
直江兼続は、上杉が決起し、東軍をひきつけ戦闘している間に、三成が東へ攻めて来て家康をはさみうちにする作戦でした。ところが三成ははやく出陣し過ぎ、また家康の挑発に乗り、城から出て関が原の野戦に臨み、結果わずか1日で惨敗します。
しょせん三成は大将の器ではありませんでした。
不思議なのはなぜ器の小さい三成に兼続は味方したのか?
徳川家康の腹心である本田正信との深いつながりがあれば、徳川と仲良しになれば、会津120万石はご安泰であったのにと思いますね。
ただ敗戦からの立ち直りが早く、滅亡にはなりませんでした。120万石から30万石に減らされ、しかも国替えしました。家臣団は1人として去らなかったようです。みな米沢についてきて屯田兵として頑張りました。
そこまできちんと闘えるのに、ただ1度の失敗は、関が原の戦いの読みでしたね。かえすがえすも残念ですね。
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