大衆がたまに発言することは難しい
永瀬ユキさんのブログからトラックバックがあり、「発言の自由度と社会的地位は比例している。・・・・偏在する権威主義について」という記事には共感を覚えました。
確かに社会的な地位のない中高年親父には、発言する機会はきわめて少ない。あっても時間は短く、感情を抑えて発言することはとても難しい。
テレビのバラエティ番組や、評論番組で顔を知っているタレントや評論家は、考えられないほど、田舎では考えられないほどの大金持ちであります。彼らが庶民派ぶって発言すること自体が「お笑い」なのであります。
発言の機会のない市民大衆は、たまにあると舞い上がる。上手に時間内に自分の意見をまとめて言うなんぞはなかなかできないもの。ネットの掲示板の罵倒を見てもそれはわかるし、「やっぱりな」という嫌な気分になります。
ブログ記事で「市民大衆て馬鹿なのか?」て書きました。昔からの課題でした。
最近ではアメリカ追随の社会に日本を「構造改革」することが改革だ。とかのたまう連中が幅を利かせてきました。日本を格差社会にしたことに加担した連中は追放されなければならない。でも反対運動している左翼側にも「司令部ー前衛論」があり、大衆を馬鹿にし、支配する権威主義=民主集中制のような独裁主義がはびこっている。
でも懲りずに、恥をかきながらも発言するしかない。ブログはしょせん電子日記にすぎないから、大きな影響力はもてないし。自分の発言を忘れないために書き留めるだけのものであるし。
もし発言できる機会があれば言いたいことは山ほどある。しかしそれを「時間内」にしゃべることはとても難しい。
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