山村工作隊と連合赤軍
知人に「運動史研究4」三一書房刊{1979年)を借りて読みました。1950年代の日本の社会運動の解説と運動当事者による「感想文」が寄稿されていました。
わたしが注目したのは「わたしの山村工作隊体験」(脇田憲一氏寄稿 P63)でした。
脇田氏は高校2年生の時に当時の日本共産党の山村工作隊に入隊されています。読んで初めて知りました。近畿地方で大水害があり、都市部はともかく中山間部は救援の手が回らず、水害救援隊として山村に入り住民から感謝されていたとか。
それが途中から山村工作隊となりビラを個別に投函やオルグ活動で住民側と関係が悪くなったことを書かれていました。そして1955年の「1・1論文」「六全協による極左冒険主義の自己批判」」により全否定されたいきさつも書かれておられました。
「もちろん、今から考えてみて、当時の情勢下で果たして和歌山、奈良の山間地域に30名もの山村工作隊を残ス必要性がどこにあったのか、ましてや山村を遊撃隊の根拠地にするという幼稚な戦略設定など、その時代錯誤は正気の沙汰であったとはいえない。
いたずらに犠牲者のみを多くし、革命への挫折感を拡大したにすぎないこれら山村工作隊の活動は、運動史的にみればまさに負の遺産以外のなにものでもなかったといえるだろう。
しかしたとえ誤った革命路線のもとにあっても、その中で燃えた青年の情熱まで否定することができるのであろうか。若しそれらいっさいのエネルギーが一片の決議や自己批判で否定されるのであれば、そもそも革命運動とは一体何なのであろうか。」(
「1950年代の武闘路線に限らず、戦前前後を通じて、日共(日本共産党)の革命路線が労働者階級の闘いを的確に捉え、その生活の中に根を下ろしたことが果たしてあったといえるだろうか。」
「対立と分裂、弾圧と孤立の再生産が際限もなく繰り返される日本の革命運動のなかにあって、傷つき倒れる青年の回復なくしてどうして運動の持続と蓄積があるのだろうか。
今日なおくりかえされる日共「党勢拡大」「赤旗拡販」競争、新左翼セクトの対立抗争を考えるとき、更にまた果てしなく進行する労働運動の体制内化と左翼分断を考えるとき、そのことに絶望し挫折する青年たちをとらえることのできない日本の共産主義運動とは、まさしく山村工作隊のわたしたちを見捨てた日共「六全協」を一歩ものりこえるものでなかったということになるだろう。そのような責任感を感じる共産主義者が果たしてどれだけいるといえるのだろうか。」
「問題は前衛党が、労働者海峡と人民大衆のために、その戦いを発展させる役割を果たすことなく、逆に「党のために」これらを利用することによりその闘いをつぶし、多くの無名の活動家たちを見殺しにし、戦線から離脱させていったことのくり返しを、反省することなく続けてきたことであった。」(p67-68)
20年前に書かれた文章です。凄惨で苦しい実体験からの文章だけに迫力があります。日本共産党であれ、新左翼であれ、無名の真摯な活動家を踏みつけ、いたづらに粗末に扱ってきたことは間違いありません。
1972年の連合赤軍事件も、「スパイだらけ」であった戦前の日本共産党の社会運動に対する反省から過酷な尋問と相互監視による悲劇であったように思います。
脇田氏の文章は心に響きました。日本の社会運動の弱点を的確に指摘しているからです。「総括」と言う言葉は、仲間苛めに使うのではなく、社会運動全体の捉えなおし、立て直すためにこそ使われる言葉です。
日本の左翼運動は分裂と対立をくり返し社会の変革の中心になったことはありませんでした。今のままでは同じです。
新しい社会運動体をこしらえるのには、おおらかさと同時に過去に向き合う「勇気」もまた必要であると思いました。
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