吉本隆明語る 思想を生きる
(画像は京都精華大学ホームページより)
世間一般は「民主党新政権誕生」の話題でわいわいやっていますが、こと高知県では小選挙区すべて「野党」になった自民党議員。選挙で叫んでいた「公共事業なくして高知県の活性化はない!」という主張を野党議員としてどう引っ張りこむのか。霞ヶ関は野党には冷たいのは定説ですし。
世間の喧騒とは別に「思想のありかた」「社会との関わり方」を一貫して考え、行動し、発表してきた吉本隆明氏。後期高齢者の84歳ですが、体の衰えは隠せないものの、しゃべりだしたら止まらない、熱弁は相変わらずです。
(パッケージもダンボールを利用していますが芸術的センスを感じました。)
京都精華大学創立40周年記念で「吉本隆明 思想を語る」のDVDを見ました。聞き手は笠原芳光氏(元京都精華大学元学長。宗教思想史家)です。京都精華大学は、1968年の短大で創設。1979年二4年生大学で美術学部を開設。2006年には日本で初めてマンガ学部を設立しています。現在は美術学部、デザイン学部、マンガ学部、人文学部で4000人の学生が学んでいます。
吉本隆明氏と京都精華大学との関わりは、大学が月に1~2回「アセンブリ・アワー」という公開講演会を開催しています。講師としては湯川秀樹氏、岡本太郎氏、加藤周一氏、寺山修二氏、谷川俊太郎氏らがいました。吉本隆明氏は9回も講演されていました。
演題は「文学の現在」「宮沢賢治の世界」「戦後詩論」「芥川・堀・立原」「ホフマンスタールについて」「文学の新しさ」「イメージ論」「普遍イメージ論」「なぜ新宗教か」とありました。吉本氏独特の話法で、考えながら独自の思想を語る講演会は魅力的で学生、教職員のみならず他大学の学生や市民も参加され、毎回満席であったそうです。
また吉本隆明さんの長女の多子さんも美術科に入学されていたご縁もあったようですね。1960年の安保闘争の時期に、吉本隆明氏は自分の思想と行動に孤立感を覚えたときに、京都精華大学初代学長の岡本清一氏の著作「自由の問題」に共感を覚えたとのことでした。DVDの対談はその岡本精一氏の話から始まりました。
(京都精華大学で講演する吉本隆明氏・随分若い頃です。)
「60年安保闘争というのは、知識人という人たちは共産党や総評や社会党の隊列にいた。自分は安全な場所にいてあれこれ言っていて全然共感を覚えなかった。
そのとき全学連の島成郎君たちが「闘争は僕らがやりますから、見守ってください。と言った。実に爽やかだった。カンパしてくれとか、支援してくれとは言わない。よしそれならば1兵卒として全学連と一緒にデモに参加しようと思った。」
「あるときデモ隊がある駅の線路に座り込みを始めた。総評の隊列にいる知識人の人たちが「危ないから」と説得に来る。けれど自分は学生たちと一緒に座り込んでいた。そしたら学生たちは「夕焼け小焼けの赤とんぼ」という童謡を歌い出した。インターナショナルや赤旗の歌ではない。実に良い歌でありました。」
「60年安保に1兵卒として関わっていたとき、共感を覚えたのが岡本清一氏と平野謙でした。岡本氏は思想と肝炎と宗教の問題を語っていました。平野氏は近代文学についての評論でした。孤立感でさいなまれていたときに、共感を覚えた2人の知識人でした。」
対談者の笠原芳光氏が上手に話を誘導されるので、吉本隆明氏の「独演講演会」よりは聞き取りやすいし、何を吉本氏が言いたいのかわかりやすかったです。
「自分のことだけでもどうしようもない。自分と社会や国家のあり方を考える。今の時代に不安があるのは当然。今の人は社会運動もしないようだし、、国家についての格別の見解もないようだ。
人にも社会にも無関心。しかし書くこと、絵を描くことはしゃべることと質が違う。」
「自立思想は社会運動のなかでの孤立感のbなかで考えた。やる以上は自分で責任を負うという腹をくくったところから考えていきました。」
話しは60年安保から、ファシズム、石川啄木になり、自立の話し、と流れるように進みました。1回見てだけですし。50分の対談はなかなか興味がつきません。その断片の一部だけ今日のところはご披露しました。
社会が騒々しい場合は、きちんとよって立つ思想が必要です。国家観、社会観のないものが政治家になり政治のリーダーになってはいけないと思うからです。「市民のレベル以上の政治リーダーは出ない」のが原則です。
政治を矮小化し、政治技術の巧拙で評価する政治関係者やマスコミ関係者は多い。それは結局のところ大衆蔑視なのです。党の前衛が党大衆を指導するとしう民主集中制の独裁主義も同じです。
だいぶ考え方が固まってきたようです。今年のテーマである「連合赤軍と新自由主義の総括」を涼しくなったこともあり、まとめの作業をおこなっていきたいと思います。
1960年の前後に孤立しながらも懸命に自己の思想的基盤の確立を目指していた吉本隆明氏。その「心意気」の一端がわかりました。「なるほど」とうなづく場面もありました。
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