橋本大二郎さんは何だったの?
10月5日の地元紙に掲載されていたらしい。月曜日は、前日の4日に海の駅クラブでセーリングとお月見会で散々楽しんで飲んでいたし、中川昭一元財務大臣が急逝された記事が新聞は大きく掲載されていましたので、気がつきませんでした。
記事によると橋本大二郎さんを見送りに大勢の元「草の根」の人たちが来られていたとか。衆議院選挙で思わぬ落選(想定外であったとは思いますが)、1991年に多くの県民に「誘致」されてこられた高知を離れることになりました。
わたしなどは動向を橋本大二郎さんの個人ブログでしか知る由もありません。選挙の公示直前までひんぱんに更新されていた個人ブログも8月17日を最後に全然更新されておりません。
橋本大二郎です。(橋本大二郎氏個人ブログ)」
あいさつ回りとか、選挙でお世話になられた人たちにはされたのでしょう。なので高知空港には大勢の見送りの人たちが来ていたとのことでした。
しかし個人ブログには「総括」もなく、8月17日以降更新されていません。こういうところを見ると、橋本大二郎さんは「新しいタイプの政治家」ではなく、「従来型」の政治家の1人であったと思いました。
落選されても堂々と昼間に大勢の人たちに見送られて東京へ戻られるのですから、選挙で大きな借金はつくらなかったのでしょう。それはなによりであったと思います。
橋本大二郎さんは高知へ何を残し、またなにが出来なかったのか。すぐには思い出せません。
今後個人ブログが更新されるのか、それとも放置され続けるのか。それも1つの答えでしょう。いずれにしても高知県の政治の歴史の1つが終わりました。
橋本大二郎さんが「何だったの?」の答えは,高知県民1人1人が総括し,出すべきでしょう。もちろんご本人も個人ブログで表明していただきたいと個人的には思います。
個人的には自分がやっていたラジオ番組で橋本大二郎さんと対談しました。それでも正直「よくわからなかった。」というのが感想です。
「記憶に残る人物」なのか、「忘れられる人物」なのかは、これからの評価でしょう。
表題とスローガンは明確でしたが、国家観、世界観、社会思想的な基盤については、何度も対談しましたが、とうとうわからずじまいでした。石橋湛山氏のような明確な社会思想を本人からは感じることはありませんでした。
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