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2009.11.14

「この国のかたち」を読んで

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 「この国のかたち」(司馬遼太郎・著・文春文庫・1990年刊)を読みました。作家司馬遼太郎さんが文芸春秋社の編集者に依頼され、雑誌「文芸春秋」の巻頭随筆集だそうです。

 司馬遼太郎さんは敗戦時には、23歳の兵士でした。「当時の彼我の戦争の構造は、対戦というものではなく、敵による一方的な打撃だけで、もし敵の日本本土上陸作戦がはじまると、わたしの部隊は最初の戦闘の1時間以内に全滅することはたしかだった。死はまことに賢愚も美醜もないというのが、戦争の状況がそれを教えてもいた。」(P282)

 敗戦後駐留していた街を歩きまくり、思いをあらたにされたようでした。栃木県佐野にいたそうです。

 少し長くなりますが、司馬遼太郎さんの歴史小説や世界観の本質のように思えますので、引用してみたいと思います。

「わたしは毎日のように町を歩いた。この町(栃木県佐野)は、13世紀から鋳物や大正期の佐野縮(ちじみ)など絹織物による富の蓄積のおかげで町並みには大きな家が多く、戦時中に露地に打ち水などがまされていて、どの家もどの辻も町民による手入れがよくいきとどいていた。

 軒下などで遊んでいるこどももまことに子柄がよく、自分がこの子らの将来のために死ぬのなら多少の意味があると思ったりした。
 
 が、ある日そのおろかさに気がついた。このあたりが戦場になれば、まず死ぬよりは、兵士よりもこの子らなのである。
 
 終戦の放送をきいたあと、なんとおろかな国にうまれたことかとおもった。(むかしは、そうではなかったのではないか。)と、おもったりした。むかしというのは、鎌倉のころやら、室町、戦国のころやである。

 やがて、ごくあたらしい江戸期や明治時代のことも考えた。いくら考えても昭和の軍人たちのように国家そのもののを賭けものにして賭場にほうりこむようなことをやったひとびとにはおもえなかった。

 ほどなく復員し、戦後の社会のなかで塵にまみれてすごすうち、思い立って三十代で小説を書いた。

 当初は、自分自身のたのしみとして書いたものの、そのうち調べ物を書くようになったのは、右にふれた疑問も自分自身で明かしたかったのである。いわば23歳の自分への書き送るようにして書いた。」(P284)

 旧日本軍の戦車部隊で従軍した折の、あまりの軍の酷さ。戦車を守るために後退し、前線の歩兵を危険にさらされる愚かさ。参謀本部の無能さに司馬遼太郎氏は怒りを向ける。

「ともかくも、昭和10年以後の統帥機関によって、明治人が苦労してつくった近代国家は扼殺されたといったといい。このときは死んだといっていい。

 わたしは、日本史は世界でも第1級の歴史を光源にして日本史ぜんたいを照射しがちなくせが世間にあるようにおもえてならない。この10年間の非日本的な時代を、もっと厳密に検討してその異質性をえぐりだすべきではないかと思うのである。」(P83)

 司馬さんは「尊王攘夷」で幕末維新期は来たものの、明治政府は開国し、文明開化をなしとげ、当時の先進国にキャッチ・アップしようとした。「尊王攘夷」は、中国の宋時代の思想で「たいしたものではない、」と。結局明治政府は新しい国のかたちをもとめ、政府中枢閣僚が2年間も欧州に滞在し、ドイツなどの社会制度を性急に輸入し、プレハブ工法で社会制度をこしらえました。

 ぎりぎりの国力と必死の外交的努力で日清・日露戦争に勝利したことがあだになり、昭和10年以降に無能な政治指導者や軍幹部が日本で台頭、結果明治国家を滅ぼしてしまった昭和10年から20年までの日本史を断罪されていることがよく理解できました。

 「坂之上の雲」や「龍馬伝」など、司馬遼太郎さんが取り上げた、英雄がTVドラマ化されます。愛媛県も高知県も観光客呼び込みに必死。来るでしょう例年の倍近くは。しかし再来年は落ち込むでしょう。

 英雄に習うべきはその精神であり、思想です。それぞれの県民の「資質」が厳しく問われることは言うまでもない。

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