誰にもある”疾風怒涛”の時代
わたしは高校時代に不登校ではありませんでしたが、学校へ行かず、テストも受けなかったので、卒業できなくなりました。
高校生反戦会議の結成大会にも参加、その後も高校生組織の結成や運営に関わり、学業よりも社会運動に活路を見出すようになっていました。単位と出席日数が当然足らなくなり3年生の12月頃卒業できないことが確定してしまいました。
担任教師は退学を勧め「大検を受けるべきだ。」と強い口調で言いました。だけど自分は学校へは行きたいと思っていました。今度はやり直すつもりで。
その気持を母親が理解してくれ、担任の教師に「この子を留年させて大学も行かせますから。退学はしません。」と言いました。
担任の教師は「それは無理でしょう。どうせ息子さんは途中でやめると思います。退学することを私が保証します。男なら大検を受けるべきです。」と言い放って帰りました。母と教師と大口論になり、担任教師は「良く考えてください。」と言い残しました。
春休みの間高校からなんの連絡もありません。新学期の登校日日にも連絡がないので、職員室へ行きました。そしたら校長が「君はなにしにきたんだ」と狼狽した様子で言いました。
「留年して学校へきました。」と言いますと「君を受け入れる担任を決めるので臨時職員会議をしないといけない。しばらく待っていてくれ」と言われました。校長室の応接で30分ばかり待ちました。
ようやく担任が決まりすでに、始まっているホームルームに行きました。1学年下の連中と同じになりました。しかし教科書も、制服も体操服も変わっていました。学校側は私が来ると思っていなかったので連絡をくれませんでした。私1人だけ前の学年の服装で押し通しました。教科書は購入しました。
活動していた社会運動組織が崩壊。頼れる場所もなくなったこともあります。かつての活動仲間と縁を切り、留年した10月頃から猛勉強しました。今頃の時期の12月頃は1日8時間程度受験勉強をしたようです。結果はなんとか高校を卒業し、大学へも無事進学できました。両親の支援があればこそです。
時は過ぎ、私の息子が大学を留年したものの卒業できず、大学に呼ばれ教授との「3者面談」をしました。教授は「あと7単位で卒業できます。研究室で助手をしてくれたら半年で卒業できます。」と言いました。
息子は「この男の奴隷になるぐらいなら死んだらましだ。」と言い教授と大喧嘩していました。結局息子は退学しました。血は争えません。
母が「あんたでさえ卒業したのに、あんたの息子はなんぞね。親の指導監督が悪い」となじられましたが、そのとうりなので反論できません。でも息子は今は真面目に家業を手伝ってくれております。これはこれで良かったのかもしれません。
自分が混乱していた時に支えてくれた両親は今は高齢者。高齢により失語症と認知症が出ています。両親を連れて散歩だとか、体操、言葉のトレーニングなど仕事の合間にしています。
今年のテーマである「連合赤軍と新自由主義の総括」にも関係しています。毛沢東主義に当時傾倒し、いろんなタイミングが一致すれば自分も浅間山荘などへ参加したかもしれなかったからです。
今となっては学業を放棄して入れ込んでいた社会運動が、人間を解放すると言いつつ、人間を抑圧する組織体であった幻滅と思想的退廃さを自分なりに総括し、克服する社会思想を確立しなければと強く思います。
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