"雑貨屋”の帝国主義
作家司馬遼太郎氏は、「坂の上の雲」を10年がかりで執筆されたそうです。随筆「この国のかたち」は、今や私にとって、高校生時代の「毛主席語録」と同じで、文庫本(高知駅前BOOK-OFF 105円で購入)を持ち歩いております。
参考ブログ記事「毛沢東思想を信仰していた者として自己批判します」
そのなかで「雑貨屋の帝国主義」(P34)があります。司馬遼太郎氏が強調し、本当に言いたいことが詰められていると思いました。また現代日本はアメリカと中国という大国の間でふらふらしています。
私が大事な箇所と思っている箇所を引用しました。相当長い引用になります。読書ノートです。一度テキストファイルに打ち出しましたが、パソコンの不調ですべてパーに。気をとり出してもう一度書き出してみました。
(日本海海戦。日本はロシア艦隊を撃破しました。)
「なぜ、日本は、勝利後、にわかにづくりの大海軍を半減して、みずからの防衛に適合した海軍にもどさなかったのか」ということである。
日露戦争における海軍は、大規模な海軍たらざるをえなかったことは、「坂の上の雲」(文藝春秋刊)を書いた私としては、十分わかっているつもりである。
ロシアのウラジオストックにおける艦隊を討ち、かつ欧露から回航されてくる大艦隊と戦うためには。やむなく大海軍であることを必要とした。その応急の必要にせまられて、日本は開戦前、7,8年のあいだに、世界有数の大海軍を建設した。
ロシア海軍はこれによってほぼ壊滅し、再建には半世紀以上かかるだろうといわれた。」(P37)
「大海軍とはいうのは、地球上のさまざまな土地に植民を持つ国にしてはじめて必要なものとなる。
帝国というのが収奪の機構であるとすれば、16世紀の黄金時代のスペインこそその典型だった。史上最大の海軍が作られ、大艦と巨砲による威圧と収奪、陸兵の輸送と各地からの収奪物の運搬のためにその艦船はあらゆる海に出没した。
16世紀末、その無敵艦隊をイギリスが破って、スペイン的な世界機構の相続者になり、機構をみがきあげるのである。
当然、イギリスは大海軍を必要とした。蒸気機関の軍艦になってから世界の各地に石炭集積所を置いたために、港湾維持のための支配や外交がいよいよ精密化した。
しかし、日露戦争終了の時には、日本は世界中に植民地などもっていないのである。」(P38)
「20世紀なかばまで、諸家によって帝国主義の規定やら論争やらが行われたが、初歩的にいえば、商品と資本が過剰になったある時期からの英国社会をモデルとして考えるのが常識的である。過剰になった商品と、カネの捌け口を他を得るべくーつまり企業の私的動機からー公的な政府や軍隊を使う、と言うやり方が、日本の近隣においては、英国はこのやり方をc中国に対しておこなった。
しかしその当時の日本は朝鮮を奪ったところで、この段階の日本の産業界に過剰な商品など存在しないのである。朝鮮に対して売ったのは。タオル(それも英国製)とか、日本酒とか、その他の日用雑貨品がおもなものであった。タオルやマッチを売るがために他国を侵略する帝国主義がどこにあるのだろうか。
要するに日露戦争の勝利が、日本国と日本人を調子狂いにさせたこととしか思えない。
なにしろ、調子狂いはすでに日露戦争の末期、ポーツマスで日露両代表が講和については強気だった。日本に戦争継続の能力が尽きようとしているのを知っていたし、内部に”革命”という最大の敵をかかえているものの、物質の面では戦争を長期化させて日本軍を自滅させることも、不可能ではなかった。弱点は日本側にあったが、代表の小村寿太郎はそれを見せず、ぎりぎりの条件で講和を結んだ。」(P43)
ロシア革命勢力の指導者レーニン。日露戦争当時、日本政府は明石大佐を通じ多額の「工作資金」をロシア内の革命勢力に渡していた。きちんと謀略活動もされていたようです。
「ここに大群衆が登場する。
江戸期に、一揆はあったが、しかし政府批判という、いわば観念をかかげて任意にあつまった大群衆としては、講和条約反対の国民大会が日本史上最初の現象ではなかっただろうか。
調子狂いは、ここからはじまった。大群衆の叫びは、平和の値段が安すぎると言うものであった。講和条約を破棄せよ、戦争を継続せよ、と叫んだ。
「国民新聞」をのぞく各新聞はこぞってこの気分を煽りたてた。ついには日比谷公園でひらかれた全国大会は、参集する者三万といわれた。彼らは暴徒化し、警察署2、交番219、教会13、民家53を焼き、一時は無政府状態におちいった。政府はついに戒厳令を布かざるえなくなったほどであった。
私は、この大会と暴動こそ、むこう40年の魔の季節への出発点ではなかったかと考えている。この大群衆の熱気が多量にーたとえば参謀本部にー蓄電されて、以後の国家的妄動のエネルギーになったように思えてならない。
むろん。戦争の実相を明かさなかった政府の秘密主義にも原因はある。また煽るのみで、真実を知ろうとしなかった新聞にも責任はあった。当時の新聞がもし知っていて煽ったとすれば、以後の歴史に対する大きな犯罪だったといっていい。」(P43)
「また、朝鮮を侵略するについても、そのことがソロバン勘定としてペイすることだったのか、ということをだれも考えなかった。
その後の、”満州国”(昭和7年・1931年)をつくったときも、ペイの計算はなく、また結果としてペイしたわけでもなかった。」(P43)
「(中略)・・・・・・。
日本からの商品が満州国に入る場合、無関税だった。この商品がこれ以後、華北に無関税で入るようになった。このため、上海あたりに芽を出していた中国の民族資本は総たおれになり、抗日への大合唱に参加するようになった。翌年、日本は泥沼の日中戦争に行ってします。
”満州”が儲かるようになったというのは、密輸の合法化という右のからくりのことをこのモノはいうのである。その商品たるやー昭和10年の段階でもなお人絹と砂糖と雑貨がおもだった。
このちゃちな”帝国主義”のために国家そのものがほろぶことになる。1人のヒットラーもで出ずに、大勢でこんなばかな40年を持った国があるだろうか」(P46)
文中引用のなかで「太字」の箇所は、わたしが特に印象に残った言葉を強調するために引きました。とてもわかりやすい表現であり、日本型「帝国主義」の本質を的確に現していると思いました。
まさに司馬遼太郎氏の「帝国主義論」であると思います。それも「日本帝国の特色」を鋭くえぐり出し、「雑貨屋の帝国主義」と一言でその本質を言い当てています。歴史を振り返ればまさにそのとおりでした。
左翼的な日本帝国主義論よりも遥かに的確。「目から鱗」の感覚でありました。
司馬遼太郎氏の言う、日本の植民地経営が「ペイ」するかどうかを当時冷静に分析し、「ペイしない」と言い切っていたのは石橋湛山氏のみでした。
参考ブログ「いでよ平成の石橋湛山」
石橋湛山は「台湾と朝鮮と樺太の植民地経営に費やす費用(維持管理費)が過大であり、上がる収入を遥かに上回っている。世界的潮流の民族独立の機運を日本は助け、日本はその旗手になり、独立国相手の交易で経済を交流すべきである。植民地を放棄すれば、余計な軍備は縮小できるし、他の民生分野に再投資ができる。」
大正8年に石橋湛山は主張していました。そのような先達者がいながら、日本は「軍拡日本」に奔走、1945年の破滅に向かい突き進みました。
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