教養のない自分を嘆く
いつぞや高知県立文学館へ行き常設展示を見てつくづく、昔の先人たちは教養があり、知的水準が高かったと感心するばかりです。
漢文の知識があり、外国語(主に英語)に堪能。若いのに幅広い知識や教養の深さに感心するばかりであります。夏目漱石や森鴎外のような「有名人」ばかりでなく、当時の大学を卒業した人でひとかどの知識人全体の教養であります。
大学進学が大衆化したことで、「教養」が薄まったことは確かであります。外国語はできないし、昔の日本語だる古文や漢文も読めない。明治の初期の古文交じりの表現、例えば「学問ノススメ」(福澤諭吉・著)などもすらすらと読めなくなっています。
漢字文化圏の韓国やベトナムなどでは、100年ほど前の漢字混じりの文章を読める人がほとんどいなくなったようです。日本の場合はまだましなのかもしれない。
しかし「教養のない」現実をつきつけられると、つくづく知力の低下を味わっています。
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