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2010.04.24

知花昌一講演会を見学

  明日の4月25日は,沖縄県読谷村にて「米軍普天間飛行場の早期閉鎖と,県内移設に反対し国外。県外移設を求める県民大会」が開催される予定です。その読谷村から知花昌一さんが来られて講演会をされました。主催は市民グループ「サロン金曜日」(松尾美絵代表)

 高知市人権啓発センターには多数の市民が来ていました。私も梅ちゃんに前売り券を購入していましたので、見学しに行きました。

 沖縄の基地問題が「国政を揺るがすテーマ」「日米関係を揺るがすテーマ」に最近なりました。それは昨年の政権交代のおかげでしょう。それまでの歴代自民党政権は「アメリカ従属政権」でした。米軍基地は沖縄だけに押し付ければ(75%も沖縄にあります。)良かったのです。

 でも昨年の総選挙で沖縄の人達は米軍基地との共存を訴える自民党。公明党の候補者を支持しませんでした。4つの選挙区は、国民新党・社民党。民主党が占め、比例区は共産党が当選したのです。日本の総人口の1%が沖縄ですが,米軍基地が75%ある沖縄ですので、「国民投票で米軍基地の沖縄から国外。県外への移設」を決めたのも同然です。

 i今まであまりに日本国民は無関心でした。アメリカに迎合する自民党政権と、お追従マスコミが「沖縄だけに負担を押し付けた」から。でも沖縄の人達ははっきりと「米軍基地NO!]と意思表明をしました。そのことが鳩山内閣はわかっているので「迷走」しているのです。当然でしょう。簡単な問題ではありません。
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 講演会の前に知花昌一さんは、沖縄独特の楽器三線(さんしん)を奏でながら,戦争とアメリカ軍基地に翻弄されてきた沖縄のひとたちの思いを唄います。

 屋嘉節

1・悲しやウチナー 戦争場になやい
  山間御万人 流す涙

2・涙でわが身や恩納山て
  御万人と共に 戦争凌ねじ

3・無蔵や石川村 茅葺ぬ長屋
  我が身や屋敷村ぬ 砂地まくら

4・何んち焦がりとうが 屋敷村ぬ枯木
  やがて 花咲ちゅる 季節んあゆさ

 「屋敷節」は敗戦後まもなくつくられた歌であるそうです。戦争でうちひしがれた人々を励ますためにつくられたそうです。

「沖縄では三線(さんしん)は、1丁、2丁といいます。アメリカは1丁,2丁は拳銃のこと。アメリカは拳銃で世界に言う事を効かせてきた。沖縄は三線(さんしん)で世界平和を訴えていきます。」

 「命口説(ぬちくどら)」や「新時代の流れ」などが歌われました。
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 続いて講演会。知花昌一さんは、明日地元読谷村で開催される「米軍普天間飛行場の早期閉鎖と,県内移設に反対し国外。県外移設を求める県民大会」」の主催スタッフの1人。そのなかでの高知での講演会でした。

「いままで沖縄のなかでいくら叫んでも、本土の人達は無関心でした。宜野湾市長は今日は福岡で講演会をしています。皆,県外へ飛んで沖縄の現状を日本本土の皆さんに理解していただこうとしています。」

「ヤマトの人達は、沖縄の人を足で踏みつけていても気づかない。気づかないようにされてきました。いままで60年間,政府は自民党。全然沖縄の声が届かなかった。昨年政権交代してようやく沖縄の声が届いた。」

「いままで沖縄のことで政府がこれほど関心を持って対処しようとしたことはなかった。鳩山政権もふらふらしていますが、とにかく沖縄の声を聞こうという姿勢だけは評価できます。」

「イタリアは午後1時から4時までがお昼寝タイム。商店も役所も仕事をしない。それが米軍基地の飛行もその時間はしません。
 沖縄ではどうです。普天間,嘉手納の騒音訴訟を常に起こしても,日本政府が住民側にたって米国と交渉しなかったんで、夜間も騒音と墜落の恐怖に基地周辺住民は悩まされているのです。」
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2004年8月に普天間基地の米軍ヘリが隣接する沖縄国際大学へ墜落炎上しました。そのとき基地の外の大学構内を米軍が閉鎖しました。日本の警察,消防は現場検証が一切できず、備品はすべて米軍が持ちされました。日本の主権はどうなっているのでしょう。当時の日本政府は抗議すらしませんでした。」(当時の日本国首相は小泉純一郎。アメリカ従属内閣でした。アメリカに言われるままにイラクに自衛隊を派兵したのです。)
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「サンフランシスコ講和条約が締結され、日本は国際社会に復帰しました。しかし沖縄は米軍施政下に置かれました。その後沖縄県民の土地が米軍により奪われ,米軍基地は拡大されていきます。
 このとき沖縄を追われた人達が、移民として南米大陸へ多く渡りました。その人達は戦争で大変な目にあっていて、私の自宅の近くのチビリガマの集団自決の生き残りの人達もいました。
 ある人が移民の人から読谷村チビリガマでの集団自決の話しを聞き、それを沖縄に持ち帰りました。私も驚きました。自宅のすぐ近くだからです。行って少し掘り返してみなすと多数の人骨がありました。そしていろんな人に聞きました。
 追い詰められた人達が,当時の軍国主義の教育により、家族同士で自殺したのです。」

 口をなかなか開かないご近所の高齢者を気長に説得し、聞き出したそうです。驚くよいな歴史があったことに気づかれたそうです。

 また知花さんはこうも言われました。
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「沖縄は基地経済には依存しないでやっていけます。復帰時18%の基地経済は,現在は4%です。軍用地代が765億円。米軍関係者の消費が523億円。基地雇用者9000人の給与が521億円です。

 でも基地が返還されれば、跡地開発で財産価値が上昇します。返還時44万人の観光客が,今は600万人です。観光収入は4104億円になりました。」

「基地返還後の経済効果を言います。ハンビー飛行場(北谷)は100人が2259人の雇用を生み出すアメリカンビレッジになっています。

 牧港米軍住宅跡地は那覇新都心となり、196人の雇用が,7168人の雇用を梅田しています。その他返還後の雇用と経済効果のほうが,基地経済より遥かに大きいことを沖縄の人達は知っています。」

「明日(4月25日)の県民大会には、県知事をはじめ,沖縄33の自治体の首長が来ます。10万人以上の集会になります。どうか皆さん沖縄に注目して下さい。」とのことでした。

 高知空港にひっそりと立っている吉田茂像。たしかに吉田氏の功績で日本は世界に復帰し,経済大国の道を歩みことができました。今日そのレポートをしていました。

 しかしそれは私たち本土の人間が沖縄の深刻な問題には無関心でありました。結果として沖縄を踏みつけていたことなのです。

 政権が交代してはじめて「沖縄基地問題が国政の大きな問題となった」のです。簡単な解決はできないでしょうが、沖縄の人達とともに沖縄基地問題,日米安保の問題を共に考え行動したいと思いました。

 高知市でも4月26日に沖縄と連帯した集会があります。

 4月26日(月曜)午後6時から

 場所   高知市役所前広場

 主催   平和運動センター・サロン金曜日・平和な未来を考える高知の会・高知県平和委員会・他

 会場で配布されていました。
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 2010年4月25日に沖縄県読谷村にて,10万人が集まり「県民大会」が開催されました。その様子を詳しく伝えるブログがあります。「ほたるの国から」というブログです。是非一読下さい。

 沖縄県民大会が一枚岩に!!

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