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2010.04.05

長曾我部伝を読む

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 「龍馬伝」の次は「長曾我部元親」だろうと張り切る高知の人達がいます。面白い人物だろうか?そんなこともあり図書館で借りてきて読みました。「長曾我部元親 土佐の風雲児 四国制覇の道・吉田龍司・著・新紀元社刊・2009年)

 この書籍は恐らく最近の歴史ブーム、「歴女)と言われている人達を意識しているようです。ゲーマーの世界では長曾我部元親は海賊で「元親アニキ」と呼ばれるイケメンの人気キャラクターであるそうですから。

 長曾我部家はもともとは古くからの土佐の豪族の1つ。祖父の代で土佐7つの豪族のなかで1番弱小勢力であったようです。本山氏、安芸氏らと対立し、祖父の代には本拠の岡豊城が本山氏により攻められ、祖父は自刃。元親の父国親は、幼少の身で脱出、幡多地域の一条氏のところへ「亡命」そこでしばらく暮らしたと言う。
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 一条氏は元は関白の家柄。京都が応仁の乱で乱れたときに、土佐の地へ落ち延びてきたお公家様。土佐の中原部は豪族が群雄割拠していたので、幡多地域(現在の四万十市付近)に居を構え、勢力を伸ばし、戦国大名化していたらしい。

 一時期は土佐で1番の勢力となり、隣国の伊予(愛媛県)にも勢力を伸ばし、一条家のとりなしで、長曾我部国親は岡豊城を返還してもらい復権の足がかりを得ました。

 そして土佐の覇権トーナメントに復帰。周辺の豪族である本山氏や安芸などと対立しながら勢力を伸ばして行きます。

 嫡男長曾我部元親は若い頃は色白で学問ばかりしていて、「姫若君」と呼ばれていました。ところが初陣で武功を立て、その勇気ある行動と、思慮深い作戦は、「さすがは学問をしていたことだけある。」と一領具足の家来どもを納得させました。
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(長曾我部元親初陣の像。若武者元親像は高知市長浜若宮八幡宮近くにあります。桂浜にほど近い。)

 参考ブログ記事「長宗我部元親の若武者像

 そして宿敵本山氏や安芸氏を滅ぼし、恩義のある一条氏も政治のみだりに乗じて、「領民を救う」名目で出陣。遂に滅ぼし土佐を平定しました。
 
 その後は阿波(徳島)、伊予(愛媛)、讃岐(香川)への3方面同時進行作戦を展開、ほぼ四国を平定しかけたときに、織田信長と対立し、四国征伐軍を差し向けられそうになりました。

 しかし本能寺の変で信長が明智光秀に討たれると、長曾我部元親は明智光秀と共謀して本州へ進行する準備もしていたようです。しかしあっというまに羽柴秀吉が台頭し、明智は滅び長曾我部元親の天下への野望は砕けました。

 元親の妻は岐阜の斉藤家の縁者であり、明智光秀とも縁が深く、出入の京都の商人たちを通じて天下の動静も把握していたらしい。光秀を通じて信長から「四国を切り取ってもよろしい」とのお墨付きまでもらっていたぐらいです。

 阿波の三好氏が秀吉に接近し、牽制の動きをし、遂には形成が逆転、織田信長の四国攻めが決定するも本能寺で長曾我部は救われました。ここで秀吉とのパイプを上手く作ればよかったのですが、上手く行かなかったようです。そして四国を攻められ降伏し、土佐1国に封じ込められました。

 豊臣秀吉に従属し、島津攻めで嫡男を亡くしてしまいました。これは大きな誤算。島津を下した秀吉が、お詫びに大隅を与えると言いましたが元親は辞退しました。その後は朝鮮の侵略戦争にも従軍し、武功もたてたようですが、秀吉が亡くなってほどなく元親も京都で亡くなりました。

 後継者の長曾我部盛親も運が悪かった。関ヶ原の戦では東軍に味方するつもりが、家康への使者が西軍の封鎖を突破出来ずもたもたしている間に、西軍に参加せざるをえなくなり、敗戦。土佐を没収され浪人の身に。

 大阪の陣では死地を求め奮戦するも敗戦し、捉えられ処刑され長曾我部家は滅びました。

 土佐や四国の話ではありましたが、なじみのある地名が出てくるし、それなりのスターではありました。

 歴史には「たらねば」はありませんが、元親が秀吉とうまく外交が出来ていたら。盛親がうまく家康と外交が出来ていたら滅びることはなかったのでないかと思います。

 すべてにうまく行っているのに、決定的な場面でしくじる。長曾我部伝記を読んでいて「教訓」にすべきであると強く思いました。

5月に南国市にて長宗我部元親ゆかりのイベントがあるようですね。チラシを関係者の人にいただきました。
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