史実とは異なっても面白い”龍馬伝”
NHK大河ドラマ「龍馬伝」が好評のようです。史実とはかなり異なる物語になっていますが、脚本家の「新解釈」でもあり、それなりに史実に忠実に他の部分はこしらえているので、より効果があるというものです。
ドラマの主役の坂本龍馬と岩崎弥太郎が、10代の頃から親しく交流していたと言う史実はないようです。弥太郎の家が街中にあったという史実もないようです。
土佐藩主山内容堂と坂本竜馬が実際に面会した史実もありませんし。
土佐藩は身分差別が激しく、武士階級の中での上士、下士の対立は致命的でした。土佐では多くの有為な人材が世の認められないまま死んでいきました。そうした悔しい事例は土佐が当時の日本で1番多かったのではないかと司馬遼太郎氏は言います。
「薩長連合」を成し遂げた坂本龍馬でも、上士のリーダーであった吉田東洋と、下士のリーダーであった武市半平太の連合をなすことはできませんでした。土佐藩が一体化したことはなく、のちのちまで対立は禍根として残り、結果として高知が貧しくなりました。
薩摩藩や長州藩は、身分お低い出身の志士たちが藩の実権を握り、幕末。維新で大活躍しました。土佐はそういう意味で藩論が統一出来ず、薩摩・長州に「遅れをとった」のは仕方がありません。結局土佐藩主山内容堂の器量が小さかったのでしょう。
武市半平太も狭量な攘夷思想に囚われ、実現不可能な外国排斥を言い続けました。吉田東洋は有能な参与で開明派でしたが、これまた気性が激しく、武市の偏狭な攘夷思想を蔑視し、徹底して無視し踏みつけました。
偏狭でしたが武市半平太は真摯な人柄で人望がありました。吉田東洋は本当に能力のある人でした。その2人のリーダーを失った損失はとてつもなく大きかったのです。
結局坂本龍馬は土佐には居ることが出来ず「脱藩」せざるを得ませんでした。そして維新政府の道筋をつけ、自分が世界相手の貿易を夢見ていたところで、何者かに暗殺されてしまいました。これももったいない話ではあります。
岩崎弥太郎が土佐では嫌われ、後継者の岩崎家が昭和の初期の桂浜での坂本龍馬像建立運動の末期に多額の寄付を申し入れするも、青年達はきっぱりと断っています。
陸援隊副隊長で、坂本龍馬、中岡慎太郎が襲われた直後に、近江屋に駆けつけた田中光顕(後の宮内大臣)も脱藩して以来、坂本龍馬像の落成式に、50数年ぶりに土佐に帰るという状態でした。
参考ブログ記事「忘れえぬ人々を読んで」
それだけ土佐は偏狭で「居づらい土地」なのです。このあたりを抑えておきませんといけないと思います。龍馬をダシに酒だけ飲んで騒いでいたら史実と現実を全くわからないことになります。
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