「歴史を紀行する」司馬遼太郎・著を読んで
高知駅前のブックオフで105円で売られていました。1976年に初版が発刊、文春文庫として1981年に第10刷として販売された書籍です。小説を書く傍ら、日本各地(12箇所)を訪ね歩き、地元の民と交流し、(居酒屋)などで議論をされて書かれています。
本は変色し、黄色く変色しています。しかし文章は、34年を経過しても古びず、なんか「高知の良さ悪さを」見抜かれたようにも思える見事さです。今もその”伝統”は高知には色濃く残っています。良くも悪くも・・・。
その本のトップは「竜馬と酒と黒潮と」(高知)でありました。
豊臣秀吉に四国の覇者であった長曾我部元親が降伏。大阪城下に家来50人を連れてやってきたときの格好が異様であり、武士を見慣れた上方人も仰天したようです。
「その風体、野盗に異ならず。」(P9)とあります。
服装は野盗そのものであり、乗っている馬も小型。でも山道に強いそうです。遠い四国の辺境の民がやってきたように当時の都会人は思ったことでしょう。
険しい四国山脈で行く手を替着られ、荒れ狂う海に囲まれた土佐の国は、独特な性格で土佐人を育てたと司馬遼太郎氏は言います。
「土佐は僻地である。しかし僻地であるという劣等感はいまもむかしも土佐人は奇跡的なほどにもっておらず、そのことが土佐気質の特徴の重要な一つであるとおもわれるのだが、これはその方言が日本語の固有なるものに近いという、お国自慢すらかぞえる自信が大きく作用している。
かれらの方言があかるく朗々とし、一声々々が不必要なほどに明快なことが特色である。兵隊をヘータイといわず、ヘイタイと言い、整理をセーりと言わず、セイりという。」(P15)
「かれらが暢達(ちょうたつ)な日本語をもっていたことが、1つはかれらを議論好きにしたのであろう。
筆者は坂本竜馬について多くを知ろうとし、その郷国である土佐を理解するために何度も高知県に通った時期がある。
町を歩き村を歩いてみたが、そういう暮らしや土のにおいのする場所よりも、むしろ高知の町の飲み屋街でより多くの土佐人の気分というものを感ずることができた。」(果てしなく論じ。飲む)
「土佐言葉はおなじ四国ながら、しかも方言的には上方圏内に入っていながら、きわめて非上方的性格を持ち、その点が方言学的にも特異とされ、とにかくもボチボチ的表現が皆無であり、論理性が高い。
きわだって高すぎることが、どの地方の方言にもみられない特性であるといえるであろう」(P19「鋭利明快なその言動」)
幕末・維新期から。昭和の時代になってもその土佐の議論好き、白黒つける県民気質は変わらないと司馬遼太郎氏は言い切っています。
「県民達は互いの議論で片付かぬとなると、断固法廷へもちこんで、最後は法律で白黒をつける。黒か白か、生か死か。勝か負けかというあいまいならぬ、抜き差しならぬ、ボチボチならぬ、そういう決着をはなはだしく好む。
この好むところが尊皇攘夷運動になり、脱藩になり、官を捨てての自由民権運動になり、山下奉文のイエスかノーかになり、こんにちにあったは日本で最も過激な教員組合運動と、日の丸校長の存在とがたがいに拮抗屹立しつつ高知県下の教育界に一瞬といえども平和な瞬間をあらわしめていないところになってあらわれている。」(P22 黒白を争ってやまず)
司馬遼太郎氏の指摘で注目しましたのは以下の思想的な経緯を述べている一文です。
「その理論的根拠は「百姓は朝廷からの預かりものであり。皇民である」ということなのであり、この法理そのものが封建的秩序への豪胆極まりない挑戦といってよく、こういう思想的風土から幕末に及んでは、郷士、庄屋などによる土佐勤王党の結成が行われ、やがては坂本竜馬、大江卓、中江兆民、植木枝盛といった思想人の系譜をあみあげてゆくのだが、いずれにせよ、天保庄屋同盟というのは、一地方史的事件とみるべきではなく、日本の思想史的事件として評価しなおすべきではないではないか。」(P25 風土が運んだ思想の系譜)
確かに土佐勤王党には庄屋であった中岡慎太郎も参加していますし、多くの参加者は脱藩をしています。そのあたりが、長州や薩摩とは異なるところでしょう。
志半ばで個人として倒れた志士たちも土佐は1番多かったのです。
明治10年に鹿児島の西郷隆盛は1万人を率いて反乱を起こしました。土佐はどうかといいますと「土佐人を1人説得するには半日はかかる」ということで、別の1面がある意味面白いとは思います。
私は今まで、意識はしませんでした。坂本龍馬ブームの浅さが嫌でした。
酒を呑むところだけ、お座敷遊びをするところだけ、「勤皇の志士」の真似をするだけです。今の龍馬ブームは。全然くだらないし面白くはない。
でも司馬遼太郎氏の分析で納得しました。なるほどなと思いますし、思い当たるところもあります。
案外土佐人の「しつこさ」「議論をする明るさ」が、日本を救うのかもしれないと心底思うようになりました。
昭和の初期に坂本龍馬像を建立した入交好保さんたちの青年達の爽やかさもその良き「伝統」の継承者だったのです。
参考ブログ記事「忘れえぬ人々」を読んで
閉塞気味の日本の社会思想。「連合赤軍と新自由主義の総括」もこの「土佐の伝統思想」を媒介させれば回答はでるのではないかと思いました。
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