「社会科教育研究会」で言い抜かった事
8月24日にYASU海の駅クラブを会場に、「高知市社会科教育研究会が開催されました。
参考ブログ記事
そのとき、丸岡克典さんとともに、「マリンタウン計画と市民活動」炉言うテーマで講話をさせていただきました。
。私としてはそれなりに準備をしたつもりでしたが、肝心のところを言い抜かりがありました。それゆえわかりにくい部分があったのではと反省しています。
参加された皆様方にどうしても伝達したかったことが3つありました。それを申し上げたいと思います。
1)まちづくりと市民参加
地域の開発計画にしろ、都市再開発事業にしましても、行政と市民との信頼関係が必要です。そして「市民参加の必要」が絶対不可欠です。
アメリカの社会学者が「市民参加のはしご段」とい図式を考案しました。岩波新書の「都市再開発を考える」(大野輝之・レイコ・ハバ・エバンス共著)で紹介されています。
この図式はわかりやすくよくできています。市民の参加不在の段階とは、セラピーや世論操作が主体。現代の北朝鮮や中国がこの段階です。
日本のまちづくりのやりかたで大多数は形式だけの参加です。
行政側(事務局)が既に腹案と事業計画をこしらえており、1部だけ公開して市民の意見をヒアリングする。委員会へ参加する市民は行政側があらかじめ、仕込んで選抜している。まず行政側の案がくつがえることはなく、腹案がそのまま実行される。
日本の公共事業の大多数はこうした経過で実行され、多くの無駄な事業が執行され、環境破壊を招いただけでなく、地方と中央の財政赤字の増大の要因ともなりました。
夜須町の場合は、丸岡克典さんが、委員会のメンバーの1人でしたが、「出すぎた」意見を言いまくり、「住民の権利としての参加」を勝ち取っていたことが大きいのです。
私も丸岡さんも1987年と88年にアメリカへともに研修旅行へ行きました。荒廃した街の再生に再開発事業が展開、多くの人たちを集め、活性化に成功した事例を見てきました。
サンフランシスコのピア39や、サンジェゴのホートンプラザ、ニューヨークのピア17やボルチモアのイナハーバーなどです。田舎者が現地を直接見学し、感じていました。
(ボルティモア市のイナハーバー。再開発のモデルとして有名。)
当時行政やコンサルタントやデザイナーを通じて、成功した店舗や開発事業に似せたものが日本に輸入されておりました。
どういう経過でその事業計画が発案され、誰が担っていたかが全然わからず、すっ飛ばしてただただそのデザインや手法だけを日本は真似をしていただけでした。
わたしは1990年から92年まで高知青年会議所で「都市再開発セミナー」をやっていまして、都市再開発の手法を研究していました。
アメリカの場合は徹底した市民参加があり、そのなかで長時間議論し、検討してきた課題を、合意が形成されるや否や、一気呵成に実現したものでした。
丸岡さんたちと共有したことはまさにそのことであり、夜須においては丸岡さんの存在はとても大きく、彼の人望もあって市民参加が実現し、ヤッシーパークやYASU海の駅クラブが出現することができたのです。
*現在県と高知市が共同事業として、高知市の中心街である「東西軸活性化プラン検討委員会」があります。
高知市のというか県都の顔である「高知城からはりまや橋までの中心軸(東西軸)」をなんとかしようという委員会でした。1度だけヒアリングと称して委員会に呼ばれましたが、あまり活発で前向きな議論はされていませんでした。皆勉強不足です。立派なのは肩書きだけです。
丸岡克典さんは、夜須では商工会議所の会頭(実際は香南市商工会副会長)や経済同友会の代表の立場を勤め、手結盆踊り保存会会長でもあり、長らくPTAの会長もされ、地域の世話人でした。土佐カントリークラブのハンディ。キャップ委員もされていて「地域の名士」でもあるのです。
それでいて地域のために積極果敢な発言をしてきました。だからヤッシーパークのボードウォークやYASU海の駅クラブが実現したのです。
2)野中兼山の港湾技術者としての先駆性と偉大さ
有安先生の手結港のフィールドワークは大変良かったと思います。
そのなかで、吉川や赤岡ではなくなぜ手結に、陸上側を掘って港をこしらえたのかという社会的意義の解説が、わたしの方で不十分でした。
有安先生にはお渡ししましたが、手書きのコピーで「ディンギー・ヨットの安全海面について」というものがあります。
夜須沖の風の吹く位置、方向性と港の位置が示されています。(クリックすると画像は少し拡大します。)
野中兼山時代の船は、帆船であります。エンジンはありません。だとするならば、風向きを意識した港の設計になっているはずです。
手結港の位置は、浦戸から直線距離では10数キロ足らずです。陸上側が大きく迂回しているのがわかります。
つまり夏であれば海側からの南風を横風として受けて帆走すれば、手結へ入港できます。
秋から冬にかけての北西の強風時にも船の斜め後ろ方向の風になるため、結構なスピードで手結を目指します。
月見山がブランケット(北西の風をさえぎる)ので、手結港には安全に入港できます。
手結港には、南側も手結山にさえぎられ、北側にも山があり、夜須の谷を挟んで月見山があるため年中安全に港が活用されるのです。台風時や強風時にも避難港としては今でも優秀であると思います。
土木機械のない時代に地形の特性、自然条件を見抜いて手結に港をこしらえた野中兼山の卓見を是非参加者の皆様にご理解していただきたかったのです。
県港湾課が野中兼山のそうした優れた港の設計思想を無視し、外洋に突き出した形で堤防をこしらえ、多少囲んでも、マリーナのなかでヨットやモーターボートが安全におられるはずがありません。
それを当時私は指摘し、それに頑迷に港湾課長が反論してきました。
(20年前のやりとりですが、高知県庁の「頑迷さ」「独善性」が良く理解できると思います。)
結果は私の指摘が正しことになり、1996年に正式にマリーナの建設は中止になりました。
ディンギー・ヨットの基地は夜須海岸ならびに旧手結海水浴場になりました。マリンタウン計画もその後はヤッシーパークが主体になっていきました。
あれだけ大きな堤防を建設している高知新港も台風の荒波には耐えられません。吉川港、赤岡港もそうです。
手結港は建設して360年が経過していますが、旧手結港の安全性は今も継続しています。
(昔の灯台跡。後ろに見えるのが可動式の橋。せっかくの避難港の機能も台無しです。)
しかるに可動式の橋を架橋するなど、前町長のやったことは愚かしい限りです。避難港としての野中兼山の思想を冒涜しているのです。
シーカヤックとアクセス・ディンギーのメニューをなぜこしらえたかといいますと、海から眺めると野中兼山がなぜ、赤岡や吉川ではなく、手結に港(避難港)をこしらえたのかと言うことが、身体でわかるからでした。
3)大自然のなかでの身体体験の必要性
夏は暑いからと言って、空調の利いた部屋で、ゲームばかりしている子供も大人も多いやに利きます。
自然体験が大事なのは、「五感、六感が鍛えられるからです。」
海はまず平らではありません。波があります。暑さもあります。日差しもあります。風もあります。
自分の思いどうりにカヌーやヨットをコントロールするためには、波に注意を払い、見えない風を読まないといけません。
陸の上のスポーツとは異なります。海のスポーツは大自然のなかで行うものです。
身体の中の「風を感じる感覚」「熱を感じる感覚」「波を感じる感覚」など陸上では感じることのできない情報がたくさんはいってきます。
解剖学者養老猛氏は「自然体験をどんどんすべき。それが不足すると考える力も貧しくなる」ということを言っています。
ヨット初心者の友人の感想です。
「ふと4半世紀前のスキーを始めた頃を思い出しました。
スキー場は圧雪車が平らに均してくれていますが、海はまんま自然。
常に新雪・こぶ斜面の状態と言えます。
だったら初心者なんだから、怪我さえしなけりゃ多少のことは周りの人に助けてもらおう、と。
47歳になって初心者の気持ちを味わえるのも、得がたい経験です。」
今回お話があり、「海体験」にこだわりましたのは、46年前の夜須の海浜学校の体験が鮮烈であったからです。
小学校4年生のときの体験が、良い思いでとして刻まれているからでした。
手結港マリンタウン計画に関わり始めたときも、国や県や夜須町が安直に「リゾート開発」ということを口走りました。
当初から「リゾート開発ではなく、教育的観点から計画を捉えるべきである。」と主張してきました。
青年会議所で最初に夜須で「中学生のためのヨット教室」を企画したときに、当時の愛宕中学の校長先生が「それはいい!ヨットは情操教育としていい」と賛同していただいたことも強く印象に残っています。
ということで、当日「言い足りなかった」ことを補足させていただきました。
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