「白洲次郎と日本国憲法」を読んで
「1946 白洲次郎と日本国憲法」(須藤孝光・著・新潮社・2010年刊)を図書館で借りて読みました。敗戦後まもない日本。白洲次郎の規格外の快男児ぶりがよく描かれていました。
ロンドン時代の知人である吉田茂氏に敗戦直後呼び出され、流暢な英国仕込みの語学力で、GHQの幹部とやりあう姿は痛快。実力者ホイットニーにも全く臆せず「お前は敗戦国民だろうが」と言われたら、「あんたもそこそこ英語が話せるのではないか」とやりかえす。
卑屈でGHQに取り入ろうとする多くの日本人の中では、吉田茂と白洲次郎だけは堂々と振舞っていました。
そのあたりはNHKのドラマ「白洲次郎」でも良く描かれていました。
ホイットニーと白洲次郎のやりとりは緊迫感があり面白い。
「では率直にうかがいますが、あなたがたの草案というのは、実際のところ(指令)なのでしょうか」。
「君という男は、どういった神経を持っているのかな」
「齟齬があってはならないと申し上げたでしょう。」
「われわれは(指令)などとは、ひと言も口にしていない。」
「もちろん、ポツダム宣言の手前、憲法改正が、(日本国国民の自由に表明せる意思)によるものであると見せかけねばならないことは承知しています。」
「見せかけではなく、実際にそうしてもらいたいと思っている。」
「ですがあなた方は、日本案を頭から否定された。」
「ポツダム宣言は国民の自由意思であれば何でもいいと想定しいぇいるわけではない。(民主主義の復活強化と基本的人権の尊重)がなされた上での意思であらねばならない。
しかしながら日本案にはこの前提が欠けている。まだ民主主義の精神が培われていないのだ。だからわれわれが少々手をかしたのだよ。」
「松本博士や吉田外相は、最終的な目的としてはGHQ草案に賛意を示しています。やりかたは日本側に任せてもらえますか。」
「ここまで再建をすすめてきた日本を、いま野放しにはできない。そんなことをすれば、すぐに某国の餌食にされてしまうだろう。」
「ソ連が黙っていないというわけですか」
「君と話していると、つい余計なことを喋ってしまうようだ。この場限りに願いたいね。率直に言って、極東委員会が乗り出してくれば、ソ連などの意向を無視するわけにはいかなくなる。
そうなれば天皇が戦犯として裁かれるのは確実だ。マッカーサー元帥は、それを避けるために最善の策を立てておられるのだ」。
「それがシンボルとしての天皇であり、戦争放棄というわけですか」。
「ほかに道はない」
「国民の自由意志をもって承認するのは困難かも知れません」。
「民主主義が成熟するのを待っているわけにはいかない」。
「黙ってあなた方の草案に従っておけということですか」。
「君は言い方は乱暴すぎる。われわれは民主主義国アメリカの経験に照らして、憲法の原則を示した。
日本人が立場をわきまえたならば、それをわきまえたならば、それを手本としようという意識は、おのずと出てくるのではないかね。」(P116 根づかぬバラ)
日本国憲法の「本質」をつく会話ではないでしょうか。マッカーサーという実力者が当時日本にいなければ、天皇は戦犯として法廷に立たされる事態にもなったかもしれません。忠誠心のある国民が当時多くいただろうから、絶望的なテロ活動に走り、治安が騒乱状態になったのではないかとも思われます。
「おせっかい」なアメリカ人に対し、臆することなく堂々と持論を吐いた白洲次郎の存在は、実に面白かったと思います。
彼自身は「こなくそ」と思いGHQとの折衝にあたっていました。日本国憲法と日米安保条約、サンフランシスコ講話条約も、すべてこの時代の産物であり、安倍晋三が打倒を叫んでいた「戦後レジーム」そのものでした。ひ弱な安部晋三ごときで打倒されるしろものではない。
歴史を振り返れば、米軍統治で上手く行った事例は、日本しかありません。ベトナムでもイラクでもアフガニスタンでもアメリカは手痛い失敗事例しか生み出せませんでしたから。
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