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2010.11.22

「日本人へ 国家と歴史篇」(塩野七生)を読んで

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「日本人へ 国家と歴史篇」(塩野七生・著・文春新書・2010年刊)を珍しく新書で書店で購入し、読みました。「ローマ人の物語」で古代ローマ帝国の歴史を詳細に書かれている塩野七生氏。イタリアから見て日本をどう見ておられるのか?気になりましたので早速読みました。

自分で自分を守ろうとしない者を誰が助ける気になるのか、という500年昔のマキャべリの言葉を思い出すまでもなく、日米安保条約に頼り切るのも不安である。
 なにしろ数千人の兵士を失っただけで厭戦気分に満ちてくるアメリカ人が、石油も出ず民主化の必要もない日本を守るのに、自国の若者たちを犠牲にするとはどうしても思えないのだ。

 軍事同盟に頼りきるわけにもいかないとすれば、国際的に孤立しないことに賭けるしかない。だがこれが、外交べたの日本人には難事ときている。と言って、難事からと避けるつづけるわけにはいかない。

 二度と負け戦をしないためには、これしか方法はないのだから。」(8月15日に考えたこと P222)

 古代史・中世史に通じている塩野七生氏。歴史観も独特。参考になります。

「中世の十字軍時代の史料を読んでいて感じたことなのだが、当時の西欧のキリスト教徒にとっての十字軍は、イエス・キリストのために行う聖戦だった。ところが攻めてこられた側のイスラム教徒たちは、宗教戦争とは見ずに侵略戦争と受け取ったのである。宗教心から起こった戦争ではなく、領土欲に駆られての侵略というわけだ。

 そのアラブ側の史料を読みながら、私は思わず、ならばその前の時代の北アフリカやスペインへのイスラム進攻は何なのよ、と言ってしまった。あの時代のイスラム教徒は、右手に剣左手にコーランという感じで、地中海に限らず西側までもイスラム下に加えて行ったのだ。

 戦争が、侵略かそうでないかという問題は、今に始まった話ではなく昔からのテーマであり、つまり戦争とは、攻めて来られた側からは見ればすべて「侵略戦争」なのである。ところが、この見方とは別に、攻めた側も攻められた側も「征服」という見方で一応は合意している戦争がある。

 アレキサンダーの遠征、ユリウス.カエサルによるガリア戦役がその好例だが、なぜこれらが「侵略」とは言われずに「征服」とされているのか。」
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 と塩野氏は「古代からの戦争」の考察を続けています。

「2例ともすぐそばの強力な敵(アレキサンダーはペルシァ、カエサルはガリア)を排除することで自国の安全を保障するという意味では防衛戦争だったが、それに勝利した後も引き返さずに突き進んで行ったのだからこれはもう侵略だと思うのに。侵略ではなく征服とされている。どこにその違いがあるのか。

 わたしの想像では、そのちがいは1つ。勝ったか負けたかによると思っている。防衛戦争に勝ち侵略戦争に移っても勝ち続けて占領地に新秩序を樹立し、それが定着して初めて征服ということになるのだ、と。

 ゆえに、征服までも長期に定着させるのはなかなかの「芸」、つまり政略(ストラティー)が必要になる。アレキサンダー大王は自分も含めたマケドニアの武将1万人と敗者側のペルシャの女たちとの結婚を強行したし、ユリウス・カエサルに到っては、現代の国会に当たる元老院の議席を、昨日までの敵であったガリアの有力者に提供したのである。

 防衛と侵略の段階ならば軍事力が主人公だが、征服の段階に入るや、それも長期に定着させるとなると、政治感覚がモノを言っているというわけである。」(P220)

 塩野氏は日本人独特の「歴史観」、よく言われている「自虐史観」についても、「そうではないだろう」としっかり述べておられます。

「第2次世界大戦で日本も、防衛に始まり侵略に移った後でも勝ち続けて大東亜共栄圏を樹立し、しかもそれで100年もつづいていたとしたら、侵略戦争と言われることもなかっただろう。だがその前に負けたのだ。

 700年も前も昔にキリスト教側の敗退でケリがついているはずの十字軍でさえも、今なおイスラム側では侵略戦争としているくらいなのだ。つい半世紀前(2010年では65年前)に終わった戦争が侵略とされてもしかたがないではないか。」

「となれば、毎年めぐってくる8月15日に考えることも、方向がはっきり見えてくるのではないか。第二次大戦の反省なんてものは脇に押しやり、戦争中と戦後の日本と日本人を振り返って示す。

 戦争を知らない世代に知らせるためである。だがその後は、過去ではなく現在と未来に話を進める。そこで論じられるのはただ1つ。

 どうすれば日本は、二度と負け戦はしないで済むか、である。」(P221)

 長々と塩野氏の文章を引用しました。でもとても大事なことを言っているような気がしています。そしてこうも書いています。

「憲法では戦争はしないと宣言しています。なんてことも言って欲しくはない。一方的に宣言したぐらいで実現するほど、世界は甘くないのである。 
 多くの国が集まって宣言しても実現にはほど遠いのは、国連の実態を見ればわかる。ここはもう、自国のことは自国で解決する、で行くしかない。また、多くのことが自国のことは自国で解決する気になれば、かえって国連の調整力よりも良く発揮されるようになるだろう。」(P221
Kenpou9zixyoumm

 と最初の文言の「自分で自分を守ろうとしない者を誰が助ける気になるのか」に戻ります。

 尖閣問題で中国に馬鹿にされ、北方領土問題でロシアになめられ。沖縄にはアメリカの巨大な軍事基地に居座られています。

 日本が二次大戦で負けたのはほんの65年前でした。敗戦の現実は65年経過し、惨めな貧乏国から経済大国になった今日でもなんら変化はありませんでした。それを日本人全体がよくかみしめないといけないと思います。

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