「人間の骨」を読んで
図書館で「人間の骨」(土佐文雄・著・東邦出版社・1974年刊)を読みました。26歳の若さでなくなった詩人槇村浩の伝記でした。
物語は高知市郊外の墓地の探索から始まる。槇村浩は人知れず草むらの中でひっそりと眠っていた。土佐文雄氏が新たに「発見」するまでは・・。
詩人槇村浩は、本名を吉田豊道と言いました。父は易者、母は産婆をしていました。夫婦は長らく子供に恵まれずようやく授かった子供が豊道でありました。今で言う高齢出産でした。
3才ぐらいから大人が読んでいる本がすらすらと読める。小学入学時には6年生の教科書もすべて読み、内容も理解していたそうです。「神童」ということで話題になり、新聞にも掲載される騒ぎにもなったそうです。
10歳の時には高知を訪れた皇族の前で世界史の講義をする少年となった。そつなく講義を終えている。
やがて飛び級で私立土佐中学へ入学。しかし学風になじまず時代の影響もあり、県立図書館で蔵書をどんどん読んでいったそうです。不得手な学科ができて落第し、転校。そこでも軍事教練は厭でサボったりしました。
時代は次第に陰鬱な時代となり、軍事教練ボイコット運動から非合法活動をしている人たちと交流を深め、吉田豊道も活動家になっていきました。岡山で知り合った朝鮮人から聞いた事柄から彼の代表作の「間島パルチザンの歌」が後年つくられました。
間島パルチザンの歌
思い出はおれを故郷へ運ぶ
白頭の嶺を越え。落葉松の林を越え
葦の根の黒く凍る沼のかなた
略 (1931年10月)
やがて逮捕され長い拘禁生活が始まる。非転向を貫くも、拘禁性食道狭窄症と鬱病を発症し、苦しんで保釈後亡くなりました。26歳だったそうです。
子供時代「神童」といわれた少年が、青年期に社会運動に目覚め、当時の強権的な権力と衝突し、捉えられ、心身のバランスを崩し夭折する。実にもったいないと思いました。
彼が自由に生きることが出来たなら、その才能を発揮し、創造豊かな文学を構築したのでしょうか。
ほんの少しだけ郷土の詩人槇村浩をながめることができました。
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