小沢一郎氏の政治倫理審査会への出席の影響は?
小沢一郎氏が「遂に」来年の通常国会前に、政治倫理審査会への出席することで、とりあえず民主党のごたごた(内紛)は表面的には収拾したようです。
連合が仲裁に入り、小沢氏側と、民主党執行部側(反小沢氏側)と意見の調整をし、「連立」を保ったようです。
しかし野党は政治倫理審査会への小沢氏出席は無意味とボイコットする様子があり、よりシビアな国会での証人喚問を要求しています。これは今度は小沢氏側が拒否するでしょう。
新年早々から政局は混乱含みです。これは国会審議前の「ごたごた」の1つです。
本命は仙石官房長官と馬渕国交大臣の問責決議です。2人が出席する国会審議を野党側が拒否しているという大きな問題があります。小沢氏の政治倫理審査会出席で国会審議が上手く行くかどうかは皆目現時点では不明です。
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コメント
nogaさんコメントありがとうございました。
>これは人によって違うから、意見は一人一人聞かなくてはならない。
良い提案があれば、相互に協力して建設に励むことができる。
そのとうりであると思います。
幕末期の吉田松陰は、尊皇攘夷を唱えていましたが、「敵のアメリカは凄い。その実力を観察して対策を考えたい。」とペリーのいるアメリカ艦隊に直談判。相手をびびらせました。
関係本も読みました。
「吉田松陰」を読んで
http://dokodemo.cocolog-nifty.com/blog/2010/11/post-05fe.html
(聞くところによると、近頃、海外の諸外国では、それぞれの賢者、智者を推挙して其の政治を改革し、その勢いに乗って急速に先進国を凌駕しようとする態度であるという。
我らは。どのような方法によって、この勢いを押しとどめることができるか。それはただ1つ。前に論じたところの、わが国の国体が外国のそれと異なっている根本の道理を明らかにし、全国の人々をは国を挙げてわが国のために死し、全藩士は藩を挙げて自藩のために死し、臣は君のために死し、子は父の為に死ぬのだという信念が確乎として、定まるならば、どうして諸外国の侵入を畏れる必要があろうか。
何とぞ諸君と、この大義の究明具現のために奮起したい。)
日本にも世界を変える人物がいました。
わたしはアングロ・サクソンの考え方は行き詰っていると思います。
9・11でもリーマンでも破綻したからです。
中東地域の侵攻でも勝ったのはアレキサンダー大王しかいません。アメリカはイラクからもアフガンからも名誉ある撤退はできないと思います。
投稿: けんちゃん | 2011.01.02 10:07
持論・結論がなければ、議論する資格もないはずだが、相手かまわず言いがかりをつけて議論をしたがる人がいる。
折角、相手を議論で打ち負かしても、それに代わる自説を提案できないのは非建設的である。
議論では「破壊は建設なり」とは行かない。不毛の議論にしかならない。時間はいくらあっても足りない。
自説を述べればそれで万事発表は終わる。
さらに、自説に似た他説があれば、自説の優位性を述べることも有益なことである。
これは、人類の進歩につながる建設的な態度である。
考える人にならなければ、自説はできない。このような人は、とらえどころのない人と呼ばれている。
しかるに、丸暗記と受け売りの学力を使って議論をしかけようとしている。
真正でない学問をもって世俗におもねり、人気に投ずる言説をなすことを曲学阿世というが、こうした行いが横行している。
こうした行為は、あながち個人の責任には帰しがたいが、由々しい事実であることには間違いない。
イザヤ・ベンダサンは、自著の中で、我が国の評論家に関して下の段落のように述べています。
評論家といわれる人びとが、日本ほど多い国は、まずあるまい。本職評論家はもとより、大学教授から落語家まで (失礼! 落語家から大学教授までかも知れない) 、いわゆる評論的活動をしている人びとの総数を考えれば、まさに「浜の真砂」である。もちろん英米にも評論家はいる。しかし英語圏という、実に広大で多種多様の文化を包含するさまざまな読者層を対象としていることを考えるとき、日本語圏のみを対象として、これだけ多くの人が、一本のペンで二本の箸を動かすどころか、高級車まで動かしていることは、やはり非常に特異な現象であって、日本を考える場合、見逃しえない一面である。 (引用終り)
日本語には、時制というものがない。だから、未来時制もない。
自分達が努力して向かうべき理想の内容も語られることがない。いわゆる無哲学・能天気である。
未来社会の内容が明らかにならないので、われわれは未来社会の建設に着手出来ない。
日本人の世の中の把握の仕方は、現実の有様に関するものである。「世の中は、、、」の形式で表現される内容である。
現実の内容は、皆がほぼ一致する。一人から答を得たら、それで皆の答がわかる。
現実の内容は、変えられない。政治家には、政治哲学がない。
だから、日本人は閉塞感に襲われる。
英米人の世界観は、未来時制であり現実とは別次元の内容である。
これは人によって違うから、意見は一人一人聞かなくてはならない。
良い提案があれば、相互に協力して建設に励むことができる。
皆が同じ現実の内容を話すばかりでは議論はいらない。
「理屈などは、どうでもよい。現実は見ればわかる」ということになる。
議論をすれば、現実描写に関する個人的なケチの付け合いとなり喧嘩になる。
皆が仲良く生きてゆくには、問答無用で生活することである。
現実にばかり囚われては、別次元の世界が一向に見えてこない。向かうべき所に関する夢も希望もない。
それで、諦観も必要になる。
アングロ・サクソンの考え方が我々の現状の打開策となるであろう。
彼らのメンタリティを理解するために、我々には英語の勉強が必要である。
ある時、私はアフリカの学者から「日本では、何語を使って大学教育を行っているのか」と尋ねられたので、「日本の大学は、日本語を使う」としごく当然のように答えると、相手はびっくりしていた。
きっとその人は、日本語で学問ができるなどとはとても考えられなかったに違いない。
http://www11.ocn.ne.jp/~noga1213/
http://page.cafe.ocn.ne.jp/profile/terasima/diary/200812
投稿: noga | 2011.01.01 20:53