「吉田東洋」を読んで
「吉田東洋」(平尾道雄・著・吉川弘文館・1959年刊)を図書館で借りて年末年始の休暇に読みました。読書三昧をしました。読んだ本の1冊です。
幕末期の土佐藩の参政であった吉田東洋。昨年のNHKの大河ドラマ龍馬伝でも、舞踏家の田中泯さんが演じていただけに存在感がありました。実際に伝記を読みますと吉田東洋は才気のある開明的な人物であり、幕末期の土佐藩にはなくてはならない人物であったことがよくわかりました。
「野中兼山の執政27年にくらべるとその7分の1(4年余)にすぎないが、近世封建制がいちおう安定しようという時期と、それが崩壊しようとする時期との相違があり、めまぐるしく転向する幕末の政局にあって確保した東洋の参政4年は、兼山の執政27年に匹敵するものではなかったか。」(P110 藩政改革 東洋政権と人材)
郷土歴史家の平尾道雄氏は吉田東洋を改革派の代表格と高い評価しています。2代目藩主の姻戚関係であった野中兼山は家老になり身分が高く権力基盤は磐石でした。
それに引き換え吉田東洋は、もともとは郷士身分で取り立てられ「馬廻りの士分にすぎず、仕置役の職分は参政、すなわち執政を補佐する地位であった。
このハンディキャップのもとに東洋政権といったものを形成し、その政策を推進していくためには、よほど強固な自信と才能を必要としたであろうし、またかれを理解し支持した容堂の存在を無視することは許されない。」(P111)
土佐藩も財政破綻状態でした。無駄の削減、既得権益の廃止など藩主山内容堂の後ろ盾があったとはいえ、保守派の抵抗は根強く吉田東洋は断固としてやりぬいたため恨みを相当買いました。
またペリー来航以後の幕政の混乱期に、老中・阿部正弘に高く評価され、福井藩主・松平春嶽、宇和島藩主・伊達宗城、薩摩藩主・島津斉彬ともに「幕末の四賢侯」としていた時代もありました。その知恵袋として吉田東洋は活躍しました。
しかし阿部正弘が病没し、大老に就いた井伊直弼は対立派を粛清、山内容堂も謹慎を余儀なくされました。しかし桜田門で井伊直弼が水戸の浪士に殺害され、全国的に尊皇攘夷の嵐が吹き荒れ、土佐でも武市半平太らの土佐勤皇党が結成され一時期権勢をふるいました。
東洋と半平太も何度か会談をしたようですが、合意に到らず決定的な対立してしまいました。藩主は謹慎中。うかつに動けない。長州や薩摩と立場は違う。
藤田東湖のような水戸藩の尊王学者との交流もありました。
藩政の要職にある立場の東洋と、原理主義的に攘夷運動を展開する半平太との対立はしかたがないものでした。吉田東洋は「海防」の必要性を説き、近代砲台の視察に薩摩藩まで人を派遣し視察させていました。
結局土佐勤皇党により暗殺されました。その後土佐勤皇党は弾圧され、多くの土佐藩士は坂本龍馬のように脱藩し、志半ばで倒れました。
歴史に「もしも」はありませんが、まことに惜しい人物でした。薩長同盟の前に、吉田東洋と武市半平太が結託することが出来ておれば、明治維新も形がかなり変っていたであろうと思います。
吉田東洋の謹慎中にしていた塾生の中から岩崎弥太郎や後藤象二郎、板垣退助らが輩出しています。人を見る目、人材登用の確かさはあった人物でした。
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