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2011.02.10

見えない関係が見え始めたとき・・・

 誰の言葉であったでしょうか。うろ覚えです。

「見えない関係が見え始めたとき。両者は互いに深く決別している。」

大学生時代に、あの有名な全共闘運動を実際に体験された5年年長の元「尊敬する先輩」がいます。

 先日「先輩」の電子日誌に私を揶揄する記述がありました。高校生時代から社会活動してきた私の思考回路を「党派に最初から最後まで振り回されてきた。社会運動の総括が連合赤軍の総括なんておかしいな」と。

 わたしは「全共闘運動なるもの」を体験したことはありません。バリケードのなかで仲間たちと身体を張って戦った経験もありません。「先輩」が語る「戦勝体験」は、わたしには「絶対に共有できない」ものです。

 いくら無党派で右翼学生や機動隊を蹴散らした。俺たちは最高だったと言われても、知らないし、その場にいないものには共感のしようがありません。「先輩たち」は40年経過して「同窓会」が出来る幸運もあるのですから。

 自分たちの「戦勝体験」を「教育勅語」にして神聖化し、一切の批判や検証を許さないという態度が、自由闊達な全共闘運動だったのでしょうか。まるで「排他的な会員制クラブ」ではありませんか。

 「一瞬輝いた。そしてすぐに見えなくなった」だけのことではないのでしょうか。全共闘運動は、社会運動現象であり、「社会思想化」することをなぜか関係者が頑なに拒んでいるようですので、経験を相対化し、教訓を引き出し、皆で共有化することが全く出来ないのですから。

 わたしとて党派は大嫌いです。しかし真剣に社会運動を継続することになれば、党派に入会し、生活の面倒を見てもらいながらするしか当時は選択肢はありませんでした。またそう思い込んでいました。

 40年前の今頃、革労協になった友人とその先輩が自宅へ集会への参加要請に来たことがありました。わたしは躊躇し断りました。東京への集会参加も誘われましたが、それも断りました。(その2人も今や鬼籍です。)

 行った友人たちは全員逮捕され、23日間拘留されて青い顔して戻ってきました。わたしは皆にののしられましたが、なんとか精神の均衡は保ちました。それは親子関係、家族のことを考えていたからです。

 しかし党派の動員で上京し、逮捕された高校生の多くは退学し、今はどうしているのかわかりません。党派をうまく泳いだ人は、表の組織でリーダーになりました。

 そして高校を卒業できなかった年(1972年)、留年して春休みに自宅で見たのは浅間山荘事件でした。私は当時毛沢東主義者でした。京浜安保共闘の考え方にシンパを感じていたのですから。実際に誘われていたのです。

 でも父が商売を始めたばかりで苦労していました。1人っ子でしたので、家を捨てて社会運動に走るか、運動を辞めるかの2者択一でした。「脱藩」する勇気はわたしにはありませんでした。

 そんな躊躇する私に常に圧力をかけてきたのが党派の連中でした。
ストイックで、謙虚で、真摯な人達が、理想に燃えながら、どうして「総括」と称して仲間殺しをしたのか。それが何よりの衝撃でした。

 「先輩」たちのように党派と無縁で、一時的にしろ党派を凌駕した「戦勝体験」は私にはありません。結局高校を留年し、なんとか卒業して1年遅れで1973年に入学した大学でもその問題がありました。

 入会したサークルはブントの影響がありました。当時片思いしていた女子学生は革マル派のシンパでした。「じゃまをするなマグロにするぞ」と革マル派の学生にぶんなぐられたこともありました。

 学費値上げ反対運動は結構盛り上がり、襲撃してきた体育会系を撃退したりして盛り上がりましたが、夏休みになりロックアウトされ運動は下火になりました。

 当時は早稲田闘争の最中。早稲田大学で、うちの大学のブントと革マル派双方が外人部隊で衝突し逮捕されたこともありました。

 そしてほどなく中核派vs革マル派の壮絶で陰惨な内ゲバが始まりました。集会を大学で開催していると対立党派が襲撃してくることもありました。そして知り合いの先輩が対立党派に下宿で殺害される出来事も起こりました。

 また学内ではある党派がサークル協議会本部を占拠し、役員選挙に、党派の息のかかっていない者の立候補をさせない強硬手段に出てきました。おそらく内ゲバの資金源がほしかったのでしょう。

 現実にサークル協議会の委員長はその党派に監禁され、リンチを受けました。親元にも党派の関係者が現れ「息子さんの命は保証しません。サークルの協議会活動を辞められ学業に専念させてください。」と脅迫したようです。

 事後対策をどうするのかということで、関係者が一同に集まり話合いをしました。党派と一戦を交え、戦おうという勇ましいもの。別の党派の支援を得ようというもの。もう駄目だから解散しようというもの。

 結論は党派には勝てないから、活動を辞めることにしました。それに飽き足らないものは大学を辞め、他大学の党派活動へ移動して行きました。

 私は活動を完全に辞め、マージャンとアルバイトに明け暮れる自堕落な学生生活を過ごしました。

 人間を解放し、理想の世界を作るはずの「革命」党派が、人間を抑圧し、人格を否定し、殺害までするのか。またその暗い党派の論理を超えることが出来るのか。

 関連ブログ記事 「全共闘よりブントに共感できます」 

 それが「連合赤軍と新自由主義の総括」と称して、最近考え続けていることなのです。

 学生時代に影響を受けた吉本隆明氏も最近は高齢者(母と同年輩)であり、「老人は超人だ」的な発言が多く、良く理解できません。

 関連ブログ記事「吉本隆明語る 思想を生きる」

 「党ー大衆」構造の超越とさっそうと登場したブント叛旗派の論客であった神津陽氏も、三上治氏も最近発言している内容はとてもつまらないものでしかありません。

 関連ブログ記事「神津陽「焔への確執」を読んで」


 かつての赤軍派指導者の塩見孝也氏も面白くありません。つまり私の問題意識でこだわり続けている「連合赤軍と新自由主義の総括」の参考になるようなことは誰も発言していないのです。

  関連ブログ記事「塩見孝也氏の「総括」文を読んで」

 一方で日本の国政、地方政治も混乱しています。隣国の強権大国である中国やロシアも露骨な侵略意図で活動しています。米軍基地は日本に居座り続けています。

 国防や、経済の発展はどうするのか。高齢化社会と人口減少にどう対応するのか。政治指導者でなくても国民1人1人が真剣に考え行動しなければならない時代であります。

 若い頃に真剣に社会のあり方を考えていました。今は多少の経験があるし、他人の話をじっくり傾聴する経験もしてきました。思想が熟成し、必ずきちんと答えがでるものと自分を信じています。

  40年前にふらふらしていた時期に、両親に私は支えられました。高校の留年もさせてくれ、大学への進学もさせてくれました。そして年月がたち、超高齢者となっている両親の介護予防に、今度はわたしが毎日動いています。

 私は私なりに、自分自身で思想的な総括をしなければいけないと思います。同時にそれは国家観、世界観、社会観の整理にもなるからです。新たな行動原理はその思想的営為のなかから生まれるからです。
 

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