”排除”したがる人達
最近面白い現象に遭遇しました。
2週間ぐらい前にはじめた「フェイスブック」というSNS始めたばかりの頃に相手側から「友達になる」申請が来ました。知らない人ではないし、こちらも始めたばかりで大歓迎。即承諾の返信をしました。
フェイスブックには「ニュースフィード」という「友達」になったもの同士の共有掲示板があります。投稿するたびに掲載します。その人はスマートフォンを持ち歩いているらしく、頻繁に投稿されていました。
ところが・・・ 最近投稿を見ないな。と思っていましたら、なんとその人の「友達」からわたしの名前が削除されていました。なんだか釈然としませんね。向こうから友達になりたい。と申請してきながら、こちらに何の断りもなく、友達を削除する。
ドライといえば、ドライ。身勝手と言えば身勝手。それがフェイスブックの自由さ。といえばそれまでですが、その人の「身勝手さ」「独善性」を思い知りました。こうした行為でその人の人間性まで公開されるので、面白いといえば面白い。
市民運動分野でも、ささいな言葉の行き違いを捉え排除したがる人達が実に多い。滑稽だった出来事がありました。わたしは「個人ブログ記者」と勝手に自覚し実際に行動しています。ある市民集会での出来事。
講演会の講師の講演の様子の撮影や、聴衆の様子も無作為に(特定の人を撮影したわけではない)撮影し、翌日講演の内容を記述し、写真も添付し私の個人ブログに公開しました。
そしたらとんでもない剣幕で呼びつけられました。
「あの集会は反体制的な集会です。来る人は決死の思いで来ています。聴衆を勝手に撮影し、ブログに公開されたら公安警察に情報提供しているようなものだ。」
「個人情報の保護と言う観点もあるし、個人の肖像権もある。勝手に撮影しブログに載せるのならグループへの出入りもしないでほしい。」と除名勧告まで出ました。
大変微妙な問題も含んでいるし、わたしの行為が全面的に正しいか、間違っているかは議論の余地はあるでしょう。でもその市民グループは「問答無用」の「排除の論理」で押し出してきました。
誕生当初から数年の関わりがあり、わたしなりの懸命のサポートや支援もしてきたはずですが、言い訳は一切許されず、一方的に排除されたのです。
多様な市民運動標榜していますが笑止千万ですね。日本の社会運動が広がりがないのは、こうした主催者側の多様性や異質の意見を絶対に認めない偏狭さがあるでしょう。
わたしも大人ですので表立っての非難はしません。そのグループを「卒業」したと称しています。しかし彼らが過ちを認め自己批判をしない限りは、絶対に許しません。敵対はしませんが、心を許さない姿勢は堅持します。
考えて見ますと、まちづくりのグループにも「異を求めない」「異見を認めない」ことが多いようです。だから盛り上がらない。
日本の社会や文化は「多神教」で異論を認めること。意見の異なる相手の存在を認める文化があったはず。原理主義的に排除したがる人達が、いろんな場所でいかに多いのか。
最近の日本は「停滞している」と各方面で言われていますが、「さもありなん」と私は思います。
それは「多様性を認めない」「余裕のない人達」が多くなり、ストレスを溜め込んでいるからでしょう。
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コメント
日本の社会運動の「負の伝統」であると思います。左翼も右翼も一緒です。そのあたりは。
日本人の生真面目さが悪さをしているところもあります。「臨機応変さ」「柔軟さ」は、日和見主義と非難されます。
党中央に忠実な人間ほど重視されることがあるのです。でも多くはつまらないことです。
大阪府の教育委員会がまた「君が代斉唱」を義務的な項目にしようとしています。東京のまねをすることはありません。
皇室は日本の文化伝統です。皇室を敬う気持ちは自然に現れるもの。
罹災地を訪問され、罹災者たちとひざをついて長時間話される姿に感動しない人はありません。
その皇室を利用して「強要」することは、皇室は望んでいません。強制ほど皇室の理念に反することはないからです。
投稿: けんちゃん | 2011.05.21 21:30
あまり決めつけてはいけないのでしょうが「排除したがる人達」は、全共闘世代に多いような気がします。彼らが権限や資金パイプを一旦握ると、どんなに非難されてもそれを離さず、多様な価値観を認めず、自分の立場を守ることに必死になる。そういう人が前の職場にも何人もいました。
勿論立派な人もいますが、政治家だけはそういう原理主義的な考え方の人を選ばないようにしないといけません。
投稿: しばやん | 2011.05.21 20:42