「吉田東洋」を読んで
「吉田東洋」(平尾道雄・著・吉川弘文館)を読みました。以前も読んで書評を書いているのかもしれませんが、
昨年の大河ドラマ「龍馬伝」で、土佐勤皇党党首武市半平太が、善人の真摯ある人に描かれていたため、土佐藩参与の吉田東洋は「悪役」になっておりました。
郷土史家である平尾道雄氏は、丹念な調査を元に、吉田東洋像を描いています。
極悪非道な封建時代の弾圧者ではなく、土佐藩改革に命を賭けた改革者であったと描かれていました。
「新おこぜ組の巨頭として東洋は参政の座についたが、その第1期は寛嘉永6年(1850年)11月から翌年6月までの7ヶ月に過ぎず、第2期は安政5年(1858年)正月から文久2年(1862年)4月までの4ヵ年の長期にわたっている。
野中兼山の執政27年(寛永13年~寛文3年)にくらべるとその7分の1のすぎないが、近世封建制がいちおう安定しようという時期と、それが崩壊しようとする時期との相違があり、めまぐるしく転回する幕末の政局にあって確保した東洋の参政4年は、兼山の執政27年にも匹敵するものではなかったか。」(P110 東洋と人材)
吉田東洋は「藩政改革派」であり、水戸の藤田東湖らとも交流があり、内外の事情にも精通した現実派の政治家でありました。ジョン万次郎からも海外の情報を得ています。
また東洋の弟子では後藤象二郎や板垣退助、福岡孝弟や岩崎弥太郎がいました。幕末維新期の動乱を超えて活躍した人物を輩出させています。
ただ「瞬間湯沸かし器」的に短期であったらしく、江戸屋敷での宴席で酒乱の上司の振る舞いに腹を立て、殴りつけたことにより謹慎処分にしばらくなっておりました。
土佐勤王党の武市半平太との議論はかみ合わず、「全藩勤皇」をかかげる武市の論を「書生論」として却下したことで、恨みを買いついには、武市は以下の土佐勤王等隊士により暗殺されてしまいました。全く惜しい人物を土佐は失いました。
当時の先進国薩摩に人を派遣し、工業技術を研修させ、海岸の防衛にも近代軍備と海軍力が必要ととき、そのために殖産興業をしなければならないという考えで、のちの土佐商会なども設立する準備もしていたようです。
歴史に「もしも」はありませんが、吉田東洋と武市半平太が、身分と思想の違いを乗り越え、1つになっておれば、幕末・維新期に土佐藩は主導権をとって時代を先導していたと思います。残念な内部対立で貴重な人材が殺し合いをし、薩摩や長州に出遅れてしまいました。
吉田東洋は、評価されるべき人物であると確信しました。
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