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2011.09.10

「土佐勤王党始末」武市半平太と山内容堂」を読んで

Tosakinnoutoushimatuhon


 「土佐勤王党始末」武市半平太と山内容堂」(嶋岡しん・著・新人物往来社)を図書館で借りて読みました。先日土佐勤王党と政治的に対立していた「吉田東洋」(平尾道雄・著)を読んでいましたので、こちらのほうも読みたくなり一読しました。

 なかなかきっちり著者の嶋岡氏は、調査してあり、土佐勤王党党首の武市半平太の実像に迫る記述をされていました。必要以上に英雄視せず、弱さや独りよがりや、思い上がりなども描いています。それだけに武市半平太の実像をよく描いています。

 今年(2011年)は土佐勤王党が結成(1861年)から150年ということです。それを記念してか、高知駅前にはスチロール製の巨大な武市半平太、坂本龍馬、中岡慎太郎像が並んでいる、「3志士像」だそうです。でも坂本龍馬と中岡慎太郎は土佐勤王党を脱会し、独自に活動していました。一緒に「顕彰」するのはどうかなとも思います。

 土佐勤王党の活動期間は実質は2年半程度でした。そして土佐に戻った武市半平太は逮捕され、1年9ヶ月拘留後切腹しました。

 尊皇攘夷思想の土佐勤王党ですが、剣術道場を開いて勤皇思想を説く武市半平太に、当時土佐では身分の低い、下士や足軽などの下級武士たちが多く参集したようです。また思想的には一種の「一君万民主義」で、「天皇を百姓が君主としていただくもの。藩主や幕府は天皇の権力を仮にいただいているにすぎない。間違っておれば打倒すべし」という一種の革命思想でもあり、庄屋身分である中岡慎太郎や吉村虎太郎にも影響を与えたようでした。

 ただ武市半平太は「一藩勤王」こだわりすぎ、立場上「二重思想」を持たざるを得ない山内容堂に対する幻想の上に生きてきた、思想的な限界もありました。長州の久坂久坂玄瑞らは「藩などどうでも良い。志士たちで決起して倒幕すればいいのだ」という草莽決起の考えではありません。

山内容堂に対する幻想や、煮え切らない態度に坂本龍馬や吉村虎太郎、中岡慎太郎などは、土佐藩にも、土佐勤王党にも見切りをつけ脱藩してしまいます。追い込まれた武市半平太は、部下に命じて、改革派の参与である吉田東洋を暗殺します。その後京都で岡田似蔵らに天誅と称して人切りを命じたり冷酷非常な面も見せています。

 結果的に集めた土佐勤王党のなかでは1番身分が高い立場にあり、腹心の平井収二郎らの朝廷工作が上手くいったおりには、容堂から上士身分に格上げされ、薩摩・長州らとともに土佐藩が公家らを伴い江戸幕府に「攘夷実行」の圧力をかけるところまでに政治的な成功を収めます。
 
 しかし公武合体派」の巻き返しで攘夷公家は追放、長州へ落ち延びます。やがて蛤御門の戦いで長州は惨敗。幕府により長州征伐が行われる時勢になり、土佐勤王党は弾圧され、右腕の平井収二郎は切腹させられます。

 土佐勤王党のメンバーは次々に捕らえられ、凄惨な拷問の末に処刑されていきました。そしてついに武市半平太も切腹させられました。

 筆者はこうも書いています。

「わたしが指摘した半平太の弱点、恥部といえるもの、出世主義的要素、政治的功利主義、「天誅」にみる非情性、「一藩勤王」の単純性と頑固さ、倫理的偏狭、急進性と保守性の自家撞着・・・・それらも半平太個人のものというより、大きな視野で見れば、土佐藩の頑迷な体質が、さらには幕藩体制の圧力が、下士層代表たる武市半平太のなかに典型的に培養し招致したもので、個人の運命的なものより歴史的必然として見る事ができる・」(P200)

 土佐藩独特の武士階級のなかでの厳格な身分差別があり、上士の支配は未来永劫続くものと思われたのですが、」半平太が上士として処遇されたことはまれな事であり、尊皇攘夷の倒幕思想と最後まで山内容堂をたてまつるという自己矛盾のなかの人でもありました。

 土佐勤王党は維新の前夜に壊滅しました。それは「時勢が飲み込んだというより、半平太と同氏たちの内なる裂け目が、彼らを飲み込んだといえるだろう。それは、しかし、新しい時勢の懐妊を意味していた。死滅は次代の生誕であり、彼らはその貴重な犠牲であった。」(P202)

 筆者が言うように、後日武市半平太が夢見た薩摩・長州・土佐の握手は、その遺志を継承した坂本龍馬や中岡慎太郎や、半平太を尋問し、追及した後藤象二郎や板垣退助によって実現しました。

 「大政奉還」も「その根は半平太や同志たちの血盟が語る勤王精神にあった。半平太を審問し切腹せあしめた後藤象二郎を突き動かし、後藤をとおして容堂を揺さぶり,大政奉還の建白を土佐藩になさしめたのは龍馬だが、その龍馬の胸中には、悲運に斃れた半平太や勤王党同志のひたすらな願いが生きていたはずである。」(P202)

 後の自由民権運動のエネルギーの原点も思想的な違いはあろうが、下層階級の反乱の発露であったことには変わりはない。

 思想的に稚拙で、頓挫する必然性を含有していた土佐勤王党。私たち後世の土佐人は、単なる「観光資源」としてのみで捉えるのではなく、社会思想としてその限界と到達点を分析すべきであると思いました。

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高知市帯屋町(高知城ほど近い。四国銀行帯屋町支店脇にあります)


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コメント

田中光顕氏は脱藩したまま宮内大臣を歴任し、高知へ戻ったのは60数年後の昭和3年でしたから。陸援隊副隊長として、坂本龍馬と中岡慎太郎が襲撃された近江屋にいち早く駆けつけていましたから。

 たぶん理想像の武市半平太しかしらないのでしょう。とにかく土佐は、維新前に内部抗争や脱藩して亡くなる有能な人が多すぎました。明治維新期には人材が枯渇していたのです。

 吉田松陰をして、周旋屋になれよと言わしめた伊藤博文や「棒のような男」の山縣有朋が明治政府の実験を握るようになるのですから。

 土佐藩の内部抗争の愚かさは呆れるほどです。司馬遼太郎さんも嘆かれておられました。

投稿: けんちゃん | 2011.09.11 18:24

武市半平太は昨年の「龍馬伝」ではそれほどの人物のようには描かれていませんでしたが、田中光顕(後の宮内大臣)は誰もが畏怖尊敬していた桁違いの大人物だったと述べていますね。

土佐藩は、明治維新の貢献が極めて大きかったにもかかわらず、土佐の板垣退助、肥前の大隈重信は早い時期に失脚し、薩長に牛耳られてしまいました。

土佐藩は、身内同士で幕末に有能な人材を処分して失うことがなければ、日本の明治の歴史はもう少し変わっていたかもしれませんね。

投稿: しばやん | 2011.09.11 17:32

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