« 大雨の合間の父のゴルフ打ち放し | トップページ | 82回目の献血・おびさんマルシェ・ラララ音楽祭 »

2011.09.18

「山内容堂」を読んで

Yamauchiyoudouhon


 9月から20日まで近くの下知図書館が、建て替えのため閉館。仮図書館が21日から開館。それまで長期間本が借れます。それで歴史本である「山内容堂」(平尾道雄・著・吉川弘文館)を借りて読みました。

 以前に「吉田東洋」も読みました。郷土史家である平尾道雄氏の著作は、時代考証が詳しく、ぞの人物の背景や時代がよくわかります。今回の山内容堂についてもそうでした。

 幕末・維新期に土佐藩主であった山内容堂。大酒飲みで知られています。年表で見ますと46歳で明治5年に死去されています。

 参与の吉田東洋を暗殺した土佐勤王党党首武市半平太に切腹を命じた藩主。あるいは幕府に大政奉還を進言した藩主としてしか知りませんでした。

 山内容堂が生きた時代は、幕末期であり、ペリーが日本へ来訪。対応をめぐり国論が沸騰していた時期でした。田舎にいながら山内容堂は、国際情勢にも明るく、しばしば中央政界にも進出し、提言をしていたようでした。

 仲良しが薩摩藩主の島津斉彬、福井藩主松平春獄、宇和島藩主伊達宗成城などと幕政のありかたに提言することもしていました。参与である吉田東洋の活躍に負うところもありました。また水戸の尊皇攘夷を唱える儒学者藤田東湖とも知り合い交流をしていました。

 ただ平尾氏によれば、山内容堂は勤皇思想の持ち主であり、4つの藩で協力して勤皇の考えがある一橋慶喜を次期将軍に推挙したり、日本の海防のありかたにも言及していました。

 しかし大老井伊直弼の台頭で、4賢侯と呼ばれていた藩主はすべて引退ー謹慎させられておりました。また山内氏自体、徳川家恩顧の外様大名であるという事情もありました。勤皇家であるが、徳川家にも忠誠を尽くしたい。公武合体論者でもありました。

 このあたりの二重性は1本気質の武市半平太も読み違えていたのでしょう。一藩勤王という政治体制を夢見、ついには阻害しているとしていた参与の吉田東洋を暗殺してしまいましたから。

 1867年に山内容堂が、後藤象二郎の要請により大政奉還建白書を起草しようとしていた前後、長崎にて英国人水兵の殺害事件が起こり、嫌疑が土佐藩出身者が多い海援隊ではないかと英国公使パークスは疑い、土佐藩まで調査に乗り込んできたことがあったそうです。

 パークスの通訳者であるアーネスト・サトウは山内容堂の印象を記述しているようです。

「容堂は身の丈高く、少し痘痕面で,歯が悪く早口であった。彼はたしかにひどく身体の調子が悪いようだたが、これは全く大酒のせいであろう。

 予が彼の語った意見から判断してみるに、かれは偏見にとらわれておらず、またその政治思想もおよそ保守的なものとは縁がなかった。

 しかし薩摩や長州に伍して、どこまでも改革の方向へ進んでいく覚悟が出来ているかどうかは疑問であった。」(維新日本外交秘録))181

 平尾道雄氏はこうも記述されています。

「容堂が薩長と行動をともにして、倒幕挙兵に参加することを希望していなかったことは事実だろう。サトウの観察は非常にするどいもので、別項には容堂や後藤が特に、憲法や国会の機能、選挙制度等についてさかんに質問をあびせて来た。

 彼らの心底にはすでに明らかに英国憲法に模したものを制定しようという考えが深く根を下ろしていたのだ。実際其の後、ミットフォードであったか予であったかは忘れたが、ミカドにお仕えして日本人のために国会開設に尽力してもらいたいという申し出をうけたことがあったのである。とも書かれている。」

 翌日坂本龍馬も同乗して藩船夕顔丸で、長崎にサトーとパークス公使は向かいました。真相調査の結果、土佐の海援隊の嫌疑は晴れ、福岡藩士が真犯人であったことがわかりました。後藤象二郎も坂本龍馬も大政奉還建白書提出直前の、外交問題を上手く乗り切ったようでした。

 平尾道雄氏は山内容堂についてこう書いていました。

「公武合体から王政復古の運動に挺身し、明治親政に立憲議会制を提唱した容堂にとっては(中略)封建大名としてその伝統に生き、封建制の矛盾や伝統になやみながら新しい時代を志向した容堂であった。

 その国事功労についてはすでに従一位を追贈せされ、別格の官幣社bに祀られたほどであるが、その生き方についてはさまざまな批判をうけている。その批判のあるところに明治維新という過渡期を大名として生きた人間容堂の姿をながめたいにおである。」(P250)

 確か司馬遼太郎氏の本でしたが、「島津久光は廃藩置県に激怒し、西郷お前は安禄山だ。」といったそうです。維新後もちょんまげ和装で押し通したそうです。明治維新の意義を全く認めなかった藩主でした。
 
 それから言えば山内容堂は開明藩主といえるでしょう。

|

« 大雨の合間の父のゴルフ打ち放し | トップページ | 82回目の献血・おびさんマルシェ・ラララ音楽祭 »

コメント

山内家は、薩摩の島津家からも嫁をもらっていました。また山内容堂の正式は京都の公家である三条家からでした。

 勤王思想を持ちながら、幕府も立てたいというので公武合体論者だったんです。
 政争に破れ謹慎していたこともあり、うかつには動けない立場でした。

 参与の吉田東洋はそのあたりがわかっていたので、土佐勤王党の武市半平太とは一緒にやれませんでした。

 井伊大老が水戸の浪士に暗殺されたので、武市半平太もテロに走りました。そこが駄目だったんですね。容堂の二重性を半平太は見抜けませんでした。

投稿: けんちゃん | 2011.09.19 20:13

徳川幕府に対しても忠臣であった背景については、山内容堂が藩主になる経緯にあるということを読んだことがあります。
山内容堂はもともと分家の嫡男であり、藩主になる可能性は低かったのですが、たまたま13代、14代の藩主が相次いで亡くなり、容堂が藩主の候補となり、幕府からもその時に配慮して頂いたとの思いがあったとかいう説があるようです。

投稿: しばやん | 2011.09.19 19:45

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 「山内容堂」を読んで:

« 大雨の合間の父のゴルフ打ち放し | トップページ | 82回目の献血・おびさんマルシェ・ラララ音楽祭 »