安岡正博さんのご逝去を悼む
「アメリカのクリーブランドと言う市は倒産した。税金がべらぼうに高くなり、医療保険サービスも市民はろくに受けられない。日本もそういう自治体が出るだろう。」→その言葉の20年後の2007年に夕張市が財政破綻しました。
「高速道路が無料になれば地方の人間は、金曜日の晩から東京へ行って買い物をする。地方都市はすべてつぶれるだろう。」
「やるのか、やらないのか。やるならやる。やらないのならやらない。」「そうしないと出来ることもできない。」と「言われていた安岡正博さん。ご逝去されました。
はりまや橋商店街周辺情報を掲載されている「はりまやSTORY](企画制作発行*アトリエよくばり子リス)に、24年前にアメリカ研修で大変お世話になった安岡正博さんのご逝去の記述が「編集後記」に掲載されていました。(画像参照)
編集者の松田雅子さんの許可を得て個人ブログへも掲載させていただきました。
安岡正博さんとの出会いは、1987年に、当時所属していた高知青年会議所の事業で、夜須町で展開されていたまちづくり「マリンタウン計画・海辺のまちづくり」を取り上げ「海洋連続セミナー」を委員会事業でしていました。
そのとき講師で来て頂いたのが安岡正博さんでした。当時の社団法人日本フードサービス協会の米国現地調査員をされており、現地事情も知り尽くした高知出身のビジネスマンでした。
夜須町での「マリンタウン計画」で、海洋リゾート構想や海辺のまちづくり構想が提唱されていました。そうであれば、安岡正博さんは「アメリカのリゾート地を高知の田舎者が実際に訪問し、見るべきだ。そしてアメリカがなぜその再開発や計画を思いついたのかその背景を考えないといけない。上っ面ではなく本質を見ないといけない。」
ということで、1987年にはアメリカ西海岸。1988年にはアメリカ東海岸を訪問しました。その後高知県建築士会青年部などの研修旅行も何度か安岡正博さんは実施されていました。
安岡正博さんの存在がなければ、香南市夜須町のヤ・シィパークは現在の形にはならなかったと思います。安岡正博さんと一緒に研修に参加された夜須町の丸岡克典さんらの頑張りで現在のヤッシー・パークは出来上がったのです。
土佐弁と英語が達者であった安岡正博さん。「おまんらもっとしっかりせんといかんぜよ!」との叱責が聞こえるようです。20年前の安岡正博さんの予言どうりに日本社会も進展しています。その先見性に改めて驚いています。
(ヤッシー・パークのモデルの1つ米国西海岸。ラグナ・ビーチ)
NYのサウス・ストリート・シーポートを闊歩する当時の夜須町”青年”層のリーダーたち。
(1988年NYの世界貿易センター前。安岡正博さんのコネクションで最上階のレストランへ行きました。)
高知が好きで、時に「いられ」ていた安岡正博さん。高知を「なんとかしたい」という志はアメリカ研修旅行に参加した参加者それぞれは、私も含め皆継承していると思います。
ご冥福をこころからお祈り申し上げます。
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