安岡正博さんのご逝去を痛む(2)
安岡正博さんは、2011年8月25日にご逝去されました。63年の生涯でした。葬儀は身内でおすませになったと、奥様のポーラさんと親しいはりまや橋商店街の桑名真紀さんに聞きました。
「安岡さんが癌とわかったのは一昨年の秋でした。かなり進行していたそうです。延命治療はしない。と決意され、生涯をポーラと寄り添って生きると言われました。」
「抗がん剤を処方し、辛い時もあったことと思います。調子のいいときは、ポーラと家へ来て懇親したりしていましたから。
あるときポーラと一緒に写った写真も必要だと思いました。龍馬伝が始まる前の年だったし、安岡さんに龍馬の格好をしてもらい、ポーラにお龍の格好をしてもらいました。和装にし、着付けは私がしました。
美容院や写真撮影の費用はわたしがプレゼントしました。「龍馬ーお龍」の夫婦の写真はその後何組かのご夫婦が写真撮影をされました。第1号が安岡正博ーポーラだったんです。」
「安岡さんは本当に見え張りで、弱みを見せないようにしていました。抗がん剤の治療は辛く見ていても辛いとことがありました。でも最初半年と医師から告知されていましたが、年が開け、春が来て、夏が越しても大丈夫そうでした。
うちの父がすい臓がんと判明してから9年間延命しましたから。安岡さんも頑張り屋だから長く生きれるのかと思いました。そして2010年を乗り切り、2011年が来て、春が過ぎ、告知されて2度目の夏が来ました。」
「そしたら8月に亡くなりました。亡くなられた翌日にポーラが来て亡くなったよと言って来ました。葬儀は身内でとりおこなったそうです。」
「その後一度ポーラはアメリカへ帰りました。ポーラのご両親も高齢になり具合が悪いからです。ポーラは今後どうするのか決めかねています。
高知に居れば英語講師の仕事は出来る。契約ではあと1年半ある。アメリカへ帰れば両親の介護が主体になり仕事は出来ないでしょう。どうするのか本人も悩んでいるようです。」
「あなたたちを含め安岡正博さんに影響を受けた人は高知にはたくさんいます。安岡正博を偲ぶ会をせんかねとポーラには言っていますが、ポーラ自身が気持ちの整理が出来ていないようです。もう少し待ってやってください。
わたしのほうからもポーラには言いますから」とのことでした。
安岡さんは今の高知の状況を見かねておそらくこう言われることでしょう。
「おまんら、ちゃんとわしがアメリカへ連れて行って教えたことを土佐へもんてからやらんといかんぜよ!いまこそ時代がそうなったがじゃ。地方が中央政府にちまちまと交付金をもらうんではなく、田舎者の知恵と気概で、地方を経営せんといかんがぜよ。
坂本龍馬の格好を真似したちいかんぜよ。龍馬のように先を見据えて行動せんといかんがじゃ。」
「高知は暖かく海山川のからとれる食べもには美味しいぜよ。人も良く暮らしやすいとくれば、資産を持った人たちが、高知をどれだけ愛してくれお金を落としてくれるのか。ここへ住みたいというて税金を落としてくれる人がどれだけおるか。
そのためにはどういったまちづくをしたらえいのか。自ずと見えてくると思うぜよ。」
「やるいのかたらないのか。やるならやり。やらないのならやらない。わしは天国から高知をいつでも眺め言うから。」と安岡正博さんの叱責が飛んできそうです。思い出します。心の中に染み付いています。
可能なら関係者各位で「ポーラさんを励ます会 安岡正博さんをしのぶ会」を開催したいと思います。もし実現するようなことになりましたら、関係者の皆様は万障繰り合わせご参加ください。
写真と以下の文章は「はりまやSTORY 2010-1月2月号より、編集発行者の松田雅子さんの許可をえまして転載させていただきました。)
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