「造形集団 海洋堂の発想」を読んで
1月14日に、東京から帰省していた下の子供と家内と3人で、四万十町にある「海洋堂ホビー館」へ行きました。廃校になった山奥の小学校の体育館が展示場になっていました。
参考ブログ記事「海洋堂ホビー館へ行きました。」
所狭しと海洋堂の作家の人たちの「作品」が展示してありました。大きな恐竜の作品から、小さなフィギアの数々がガラスケースに入れられていました。プラモデル、怪獣。合体ロボ、動物、美少女、博物館ものなど多様な分野の造形作品が並んでいました。本当に退屈しない展示でしたし、エネルギーと作者の意気込みを感じました。
そのなかでオーナーの宮脇修一氏の著作「造形集団 海洋堂の発想」(光文社・刊・2002年)がホビー館にありましたので購入し、読みました。
なんとオーナーの宮脇修氏と宮脇修一のユニークでたくましいこと。「人生すごろく」を実践したような生き様でありました。
いくつか職を経験した宮脇修氏が,定職をもとうと始めたのがプラモデル販売店でした。どんどん顧客本位のサービスを展開。店の中に模型の潜水艦を航行させるためにプールまで作成。冬はふたをして模型の戦車を走らせていたとか。
1人息子の修一氏はお客である子供たちと一緒に店で遊び。リーダー格になり、中学生のときから商売人として成長していきました。
凄いのはプラモデルが下火になると、「ガレージ・キット」を展開し、「造形士」と言われている人たちを社員としともに成長していきました。
その1つの転機が「食・玩」といわれているお菓子のおまけの小さな玩具(フィギア)でした。キティちゃんやポケット・モンスターやディズニーのような「キャラクター」商品ではなく。海洋堂は動物のフィギアをおまけにつけ(ニホンザルやつちのこ)など・話題を呼び販売先のコンビニで大人気になったそうです。
これが海洋堂の起死回生となりました。プラモデルの世界ではヒット作も1万個が2万個売れれば大ヒット。ところが食・玩の商品は1個が300円足らずですが、100万個、200万個という単位で全国のコンビニで売れたのです。
「ワールドタンクミュージアムの最大の収穫は、潜在的なお客さんを確認できたことです。
ふつうの模型店で戦車が常に100万台売れるのであれば、プラモデル市場は現在のように落ち込んではいません。
本物のマニアは1万人しかいないのです。その人たちは当然買ってくれるであろうけれども、実際に250万個売れたということは、戦車についてちょっと聞きかじったことがあったり、昔ちょっとプラモデルで遊んだり、多少戦車を知っている”くすぐり”があったからだと思います。
そのくすぐりとしては、戦車のマニアも納得させながら、一般の人を引っかけるためのフックをつけたことでしょう。歴史的な背景が分かる解説書をいれたり、迷彩塗装別に商品構成をするなど。
ほかにメカニカルな精密感なども理解しやすかったと思います。」(P163「食玩で大爆発」)
まさに新しい市場を「創造」したことですね。修一氏が子供時代に模型店に出入りし、そのまま海洋堂に居つき造形作家になったひとも複数いるようです。一時期は会社のなかで寝泊りし、365日フィギアをこしらえていた御仁もいるようです。物凄い集団ですね。
大量生産できるように中国で金型をつくり、塗装もする。海洋堂の仕事をやっているうちに、中国にもマニアの人たちが工場を立ち上げ、よきパートナーとして共存しているようです。このことも凄い。
「ホビー館」の実現が海洋堂の1つの夢であったようです。それは実現しました。次の夢は「世界制覇」であるとか。
大英博物館やルーブル美術館のお土産として、海洋堂のフィギアでつくる。既にその準備も試作もやっているようです。
書かれていることはオーナーの立場であり、面白いこときれい事ばかりでは現実はなかったかもしれません。でも「オタク」でしかなかったプラモデルやフィギアの作者が、「造形作家」と言う称号を得て、社会的に国際的に評価される道を切り開いた功績は凄いものですね。
1人のカリスマが居て、腫れ物に触るように「取り巻きが」いて、若い人たちが萎縮し、精神的に参ってしまうアートの世界が多いようです。 それからいくと海洋堂の宮脇親子のオーナーはおおらかで、破天荒で面白いと思いました。
アートな業界で仕事されている皆さんの励みに海洋堂の存在はなるでしょう。10年前の著作ですが、いまでも成長していることでしょう。そして高知県の田舎に「海洋堂ホビー館」は誕生したのですから。
宮脇修一社長の野望は「世界制覇」であります。
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