「日本人を考える」を読んで
「日本人を考える」(司馬遼太郎対談集・文春文庫・1978年刊)を読みました。対談相手はなかなかのくせもの揃いでありました。梅棹忠夫・犬養道子・梅原猛・向坊隆・高坂正尭・辻悟・陳舜臣・富士正晴・桑原武夫・貝塚茂樹・山口瞳・今西錦司という豪華メンバーでした。
わたしもその昔、高知市のコミュニティFMで、市民番組製作者として8年10ヶ月対談形式の番組を制作し、出演していました。こちらは市井の市民の対談番組。
参考サイト「けんちゃんのどこでもコミュニティ」
http://www.nc-21.co.jp/dokodemo/index.html
司馬遼太郎氏の場合は、知識人なので、やはりレベルが全然違いますね。
梅棹 「思想というのは伝染病みたいなもので、一度ひどいのにかかると当分免疫性ができて、次のがきてもかからない。仏教がやってきたとき、日本はいわばバージンだったからまともに感染して、挙句荘厳な舞台装置という仕掛けをつくってしまった。
そこへへカトリックが手ぶらでやってきても、免疫ができているからかからないわけですね。」
司馬「そうかもしれませんね。日本人の思想というのはいずれも海の向こうからやってきて、それがいつも多分二悲劇的なんですな。キリシタンの受難もマルキストにしても。それから水戸学の思想。あれは宋学からきています。
蒙古帝国に滅ぼされかけた南宋のインテリたちが,南宋こそ正統であることをいわんがための、いわば尊王賤覇の思想なんですね。この宋学のファナティクなところが水戸学に結実して、それが幕末の革命思想みたいなものになっていったわけで。
そころが宋学(朱子学.陽明学)もまたフィクションでしょう。そのフィクションからさめたときに、他のものが望まれた。思想というものはアルコールみたいなものですから、さめてしまうと他のアルコールが必要になる。
それが例えばマルキシズムじゃなかったか、そんな事情が日本の思想史の一面にあるように思うんですよ。」(P19「日本は"無思想時代”の先兵」)
司馬「たとえば代議士は"先生”と呼ばれるでしょう。あれは幕末のかけだしの志士がボス志士に対して使った呼び名が続いているんです。
たとえば土佐の田中光顕が土佐で頼るボスがいなくなったため、長州の高杉の所へ行って門下生にしおてくれとたのんだ。高杉はなんの門下生だといっておどろいたが、ともかく田中にすれば長州藩士にはなれないから、高杉も門下というユニークな関係をつくることによって長州系列に入った。
田中は高杉先生とかいって高杉のあとをくっついてあるいている。この人は土佐人のくせに明治期には帰化的な長州閥人で、そのおかげで伯爵になった。」
高坂「なるほど、そこからきているんですか。"先生という呼び名は、いかにも書生が門下入りして政治をやっているという感じが現れていますね。幕府がそういう書生政治にやられてしまったというのも、結局は幕府に政治家がいなかったということじゃないでしょうか。」
司馬「官僚はいたけど、政治家はいなかった。」
日本で政治家らしい政治家は大久保利道であると高坂氏と司馬氏の異見は一致しました。
高坂「大久保というのは長期のビジョンも構想できたし、それを実現するための手はずも地道に考えることもできたんですね。普通、手はずを考えるのは官僚で、先のことを、それも夢のようなことをしゃべるのが書生、議員さんで、これは酒を飲まないといえないような代物だからね。
必然的に待合政治になるわけで・・・大久保の場合はシラフで、2つのことができた例ですね。しかも彼は派閥とは関係がなかったでしょう。」(政治に教科書はない。p127)
今後の中国との付き合いの仕方も難しい。そのあたり中国歴史の研究家の貝塚茂樹氏との対談は面白い。
貝塚「中国人の厳しさは、マージャンをやるとわかります。マージャンは賭けだから、中国人は相当インチキをやりますね。そこで相手がインチキをやれば、それ以上のインチキをこちらもやって、その場で仕返しをしてみいいんです。」
司馬「なるほど」
貝塚「相手が悪いことをすれば、こちらも悪いことをして返せばいい。それでオアイコですこれが日本人なら、相手がインチキをしても、こっちがインチキするのは差し控えるでしょう。
そしてあいつがインチキをやると悪口を言う。中国人は違う。日本の軍部がムチをしたのなら、こっちもムチャをしたらいい。先にしたものが悪いんだから。中国の喧嘩では、先に手をだすのが悪いんですよ。どんな理由があっても。」(P271「中国とつきあう法」)
いまから34年前の1978年に刊行された書籍ですが、「旧さ」を全く感じません。現代の社会に通じる卓見をいくつか「発見」することができました。
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