「新左翼とは何だったのか」を読んで
「新左翼とは何だったのか」(荒岱介・著・幻冬舎新書・2008年刊)を高知市の片桐書店で購入して読みました。はりまや橋のあるこの老舗の書店。TUTAYAのような大きな書店ではありませんが、わたしの問題意識にあう本がありますね。以前も「原発・正力・CIA」もこの書店で購入しましたから。
わたしも40年前の今頃高校を卒業できなくなり、留年した苦い思い出があります。当時の連合赤軍事件が深刻でした。当時わたしは毛沢東思想を信仰していました。高校生の反戦運動にも関わりがあり、後に部落解放運動へも関与時期もありました。
また高知の田舎でも中央の党派闘争の影響があり、10人対10人の乱闘があったりしていました。田舎の高校生にも大きな影響をあたえた新左翼。これはいったんなんであったのか?
わたしも「連合赤軍と新自由主義の総括」を最近のテーマにしています。それで読んでいました。
著者の荒岱介氏は945年生まれ。早稲田闘争や第2次ブントの社学同(社会主義学生同盟)委員長。三里塚闘争や東大闘争で3年間服役されました。現在は67歳。著書は4年前に書かれていました。
日本共産党が独占していた敗戦後の社会運動・革命運動。しかし1953年にソ連の独裁者スターリンの死後、1956年にフルシチョフによるスターリン批判の衝撃は全世界に波及しました。
1956年にソ連の衛星国家であったハンガリーで、市民が決起し独裁権力者を追放し、民主化ののろしを上げました、。しかしソ連は軍事介入し民主化の動きを圧殺しました。その事態にソ連共産党炉頂点に、各国共産党が配下にいるのですが、日本でも日本共産党から、独立した組織や運動体が誕生しました。それがブント(共産主義者同盟)や革共同(革命的共産主義者同盟)であり、社会党からも社会主義協会や革労協といった新左翼が誕生していきました。
1960年の安保闘争や、三池争議の支援。敗北と衰退から、再編成し1970年安保前後の社会闘争は新左翼党派や、ノンセクトの学生運動体である全共闘により担われました。わたしも高校ー大学時代は翻弄され続けていました。
日本共産党は1951年には武装闘争を指導していました。それが1955年には全面批判し、それを放棄。議会で多数をめざして運動をする方針になりました。
筆者は共産党を評してこう述べています。「党の綱領や方針はいつも正しいが、党員の品性や特性に問題があれば実現されないという主張なのです。宗教団体みたいなものです。」(P39)
「それにしても、大衆運動が自派の統制のもとにあることだけを基準とする、共産党のセクト主義は行き過ぎています。それで闘いの意義まで否定するのだから、大衆運動がおきるたびに、共産党は運動団体と対立「することになってしまいます。
そしてそんな体質、じつは新左翼も引くついでいることを読者は追ってみていくことになるでしょう。」(P52)
「スターリン批判とハンガリー動乱のなかで明らかになった前衛党の権威失墜は、日本でも60年安保闘争での共産党の徹底した運動抑制、闘争放棄により、日共=前衛幻想の喪失としては完膚なきまでに刻印されたのです。
このあたの60年代後半の70年安保反対闘争は、共産党や社会党を批判する新左翼が幅を利かせて」闘われていきます。」(P68)
しかし著者は「出目に縛られる新左翼の弱いところ」(P68)を的確に指摘しています。
「ここで小括的にまとめるならば、新左翼は以上述べた歴史的事象から派生しているが故に、そのレーゾン。デートル(存在理由)として引きずり続ける以外はない出目的特性をもっています。
その1つは、ハンガリー動乱にみられる民衆蜂起は、スターリンの恐怖政治がもたらしたものであり、スターリンはマルクスやレーニンの言説とはかけ離れた彼独自のイデオロギーを作って、一国社会主義建設可能論という自分の政策を正当化していたという批判に端的な、スターリン主義へのアンチという立場です。
(中略)
それは新左翼に即して言えば,トロッキーも含めた原典に戻り、理論戦線においても本来のマルクス・レーニン主義を取り戻すべきだ、またその実践を行なうべきだというピュアな問題意識に即したンものといえるのですが、その裏腹として、とんでもない自己絶対化と尊大化、差別意識を生み出すことにも直結しています。
つまり「反○○」というアンチ思想は、対象としての絶対像(ないしは侮蔑の対象を必要とするのであり、この絶対像に該当とされるものとされるや、たとえば対立党派は、民コロ、ウジ虫、青虫、赤虫と在ってはならないもののように扱われていきます。そこでは対話が成立する余地は生まれないのです。」
「そのため理論における1国社会主義建設批判としての国際連帯、党独裁批判としてのソビエト(労働者評議会型革命、プロレタリア民主主義の確立などの諸内容も、エートスとしては自分たちの内側に対してだけ適用される規範でしかなくなります。「内部規範、外部対抗」などと、外に対してはすべて否定の対象とする体系化が行なわれてしまうのです。」
「また、ベーシックに返れという新左翼の問題意識は、マルクス、エンゲルス、レーニン、とロッキーなどの原典を守れという、教条主義と表裏一体のものとして新左翼を成立させています。
イスラム教で言えば「コーラン」を字義どうりに解釈し、そのまま実践すべしという原理主義勢力と同じようなものとして、教義を変えること自体が許されなくなるのです。
この結果新左翼の教義問題は、宗教の教義問題と同じになる宿命を孕むことになります。マルクスはこういっている。レーニンはこういっていると、経典化された文献からの引用で自分の主張を飾るのは新左翼の特徴であり、トロツキストはじつはトロッキー教徒なのです。
つまり「新」は「守旧」でもあるパラドックスももとに成立することになってしまうのです。
中略
そんな世界だから、学窓的知のクロスオーバーなど生まれようもなく、あったとしても「マルキスト」という枠をもった同好の士が集うだけになってしまいます。
たとえ原典に従えというだけでは、時間性と場所性に対応できないという場合でも、結局は宗教のように自派の教祖を崇めるだけという結論になります。
外に向って対話していく構造は、新左翼の出目においては生まれない構造になっているからです。」(P71「出目に縛られる新左翼の弱いとこ})
荒氏のわかりやすい的確な指摘であるとあると思います。「人間を解放するという革命思想が、なぜ同士を殺害し、少しだけ考え方の違う他の党派の人たちと殺し合いまでするのか?」高校生の時以来40年間人知れず悩んできた問題が、ここではすっきり明らかにしていただきました。
なるほど新左翼理論の多くは、「生い立ちから制約」されたものであり、他者との対話を拒絶する偏狭な「原理主義」であったかと。40年前に早くそれに気がついていたら「高校留年」という回り道もしなかっただろうし、以後悩むこともなかったことでしょう。
ただその後わたしは2000年にいろんな人たちとの出会いから、ラジオ番組をこしらえることになり、自分でゲストを招聘し、話、それをホームページにオまとめるという、大変個人的にはハードなことを私的な時間にやりました。
政治的立場の異なる人。主義主張の異なる人を遭えてゲストに招き、主義主張を聞きました。そして私心を入れずに記録に残しました。そして気がついたのです。
「異論は異論として冷静に聞かないと。そのうえでよりよい解決策を見つけるべきであると。」つくづく最近はそう思います。
早熟であった「政治少年」も今年10月で59歳になります。来年は還暦なんですね。ようやく長年のテーマであった「連合赤軍と新自由主義の総括」が出来そうになりました。
昨年の3月11日の東日本大震災の大被害は、南海地震で甚大な被害を受けるであろう高知市二葉町住民の私にとって深刻な影響を与えました。「思考停止」状態になりました。いまでも思考はそのこと中心なんですね。
それだけに今回の荒岱介氏の著作「新左翼とは何だったのか」は大変参考になりました。
この本にある左翼政党・新左翼の分岐図を画像にあげます。既に消滅した政党・セクトも数多いですね。日本の政治状況も混乱を極めていますが、一時期に日本社会に大きな影響力をもっていた新左翼も「政界再編」の一翼すら担っていませんね。それだけ政治的に不毛な風土であったのでしょうか?
日本社会のあるべき姿や行く末が、求められている時期に、きちんと構想や未来図を示せる政党なり社会運動体が現れないと日本は救われないことも事実です。
(左翼政治勢力の変性図。「新左翼とはなんだったのか」の付録です。)
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