「身もフタもない日本文学史」を読んで
「身もフタもない日本文学史」(清水義範・著・PHP新書・2009年刊)を表題に引かれて図書館で借りてきまして読みました。1947年の団塊の世代の著者の感覚は、何かと相通ずるところがあり、今風の流行も取り入れながらの解説は面白かった。
「源氏物語」については千年前に書かれているのに、人間模様の複雑さや、それぞれの人たちの気持ちをよくぞ描いている。世界水準の文学であると筆者はいう。
物語のなかに挿入してある短歌は、今風に言えば「メール」ではないか。メールで表現することに通じていると言う。
「だから男性も女性も、異性からメールが来たとわかるとなんだかわくわくするのである。そしてその文面にハートマークが使ってあったりしたら、そうだったのか、と喜ぶのである。実際にはそれほどの意味はないことのほうが多いのだが。」
「光源氏は、一夜を共にして愛を交わしたその相手に対して、別れてすぐに短歌を贈ったりする。あなたに会うことができたというのに、別れればすぐにまた心寂しくなる私です。みたいな歌だ。
そうすると女から、そんなことばかりあちこちの人に言っていらっしゃるのではないかと、恋するわたしの心は震えます。、みたいな短歌があって恋は燃え上がるのだ。」
中略
「そういう駆け引きを我々は楽しくやっているのだ。そしてもちろん、ひとりひとりに言葉遣いの能力の違いはあるもので、みんな結局はその人らしいメールを出している。だからこそ相手を良く知るため判断材料にもなるのだ。
そう考えたみたら、「源氏物語」で紫式部がやっていることのとてつもさがよくわかるのである。彼女は実にさまざまな、百人以上の人の短歌を、その人らしく作っているのだから。不器用な人の短歌は不器用に作らねばならず、チャーミングな人の短歌はチャーミングに作らなければならない。それは信じられないぐらい大変なことである。」(P47)
また清水氏は「エッセイは自慢話だ」とも言っています。枕草子、方丈記、徒然草もそうだと言います。
「エッセイ=世の中へのお叱り、という公式がくっきろとできあがっていて、人はエッセイで愚かな世の中をしかるのである。」(P67)
「日本のエッセイは、時流から外れて不遇をかこつ人が、だがしかしわたしにはこれがあると負け惜しみの自慢をするという伝統の中にあるのだから。
中略
その意味で、兼好の「徒然草」と清小納言の「枕草子」はエッセイの2台お手本であり、最高傑作なのだ。」(P70)
また江戸文学では式亭三馬、の「浮世風呂」は、現代風に言うと「ケータイ小説」であると。「ほとんど会話だけで成り立っている小説は、現代で言えばケータイ小説に近い。とっつきやすく、自分の身近なものという気がして親近感がわくのだ。」(P145)
十返舎一九の「東海道膝栗毛」は、紀行文の元祖。短歌、狂歌。川柳も書も画もたしなんでいたという。著作料で日本で最初に生計を立てた人といわれています。
近代文学では夏目漱石を高く評価していました。それは英文学の基礎があるから、日本語表記が論理的。欧米語に翻訳しても通用する。100年以上前の小説が現代人にもすらすら読めるのはある意味すごいことであると筆者は言います。
それは漱石が現代の日本語文をこしらえた人であるからです。
たまにはこうした著作もいいもんですね。取り上げた文学本を読んでみたいと思うようになりましたから。
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