高知市の3・11風景
東日本大震災から1年。昨年はPRGRの女子ゴルフ大会を父と観戦していました。体調が悪く早々に退散し、自宅へ帰り着いて大震災を知りました。もしあのまま観戦し続けていたら大津波警報で道路が閉鎖されていましたから自宅へ長時間は戻れませんでした。
今日は朝から風が強い晴天。父の体調は1年前より遥かに良いです。それで朝はゴルフ練習場へ行きたいというので同行しました。見ていると真っ直ぐに球を打っています。
両親の昼食当番は今日は私。それで昼食をこしらえ、自分たちも食べて出かけました。
先週に続きおびさんマルシェへも行きました。今日はフリーマーケットも出ていました。
それから知人が出品している書道展へ行きました。長い紙に達筆で漢詩が書かれています。別の人の作品は象形文字のような漢字もありました。
今日はその当人がおられました。話しを聞きますと、長い紙に字を書く場合は中腰で足を踏ん張って書くのでとても辛いとか。展示会へ出すのは大きな作品でないと見場がないから。とのことでした。
それから丸の内緑地へ移動しました。「なくそう原発3・11高知集会」へ参加しました。もっとも参加団体ではなく、全くの個人としての参加です。
平和運動センター議長の山崎修一氏が挨拶し,集会は始まりました。司会進行はグリーンネットワーク高知の外京ゆりさんがされていました。参加者は1100人であることが発表されました。
まず横浜市から家族ぐるみで関東の放射能汚染を恐れ(特に幼児の子供への被爆を恐れて)高知へ来られている女性からのスピーチがありました。
「関東はいたるところに放射線のホットスポットがあります。それに食品を通じての内部被爆が心配。子供は新陳代謝が盛んだから、大人の5倍の確立で被爆します。
チェエルノブイリの水準から言えば、日本は基準が緩々です。避難退避地域に400万人人たちが今も生活しているのです。子供のためにわたしは高知へ来ました。」
続いて谷脇和仁弁護士。伊方原発稼動差し止め原告団の弁護士をされています。(高校の同級生)
「現在原告団は300人です。もっと増やさないといけません。さきほどの横浜市は福島原発から200キロも離れています。しかし高知は120キロ足らず。四万十市は50キロ程度です。今日のお天気のように北西の強風が吹いていれば放射能はすぐに高知へやってきます。
続いて四万十市からこられて脱原発運動をされている山本さんがスピーチ。
「グリーピース・ジャパンが伊方原子力発電所から風船を飛ばしたら、3時間で四万十市へ飛んで来ました。これはいかんと四万十市でも少数ですが集会を開いてきました。今日はバスを仕立てて今日の高知市の集会に来ることができました。」
メルトダウン・ブルースを独唱していましたが、なかなか面白い歌でした。
元東京電力の原子力担当社員の木村敏雄氏(土佐清水市在住)。「原発で17年働いてきました。福島第1原発では1991年10月31日に地下にある非常用電源が大雨で水没し稼動しなくなる事態になりました。わたしは上司にもし津波が来れば福島原発は駄目になるのではないか」と言いました。上司はそのとうりだといわれました。
しかし実際の問題として非常用電源を別の高台へ移すとなれば、安全審査会の審査や、検査や審査をすべてやり直しないといけません、膨大な時間とお金がかかる話・だれもが危険性をわかっていながら、だれも改善しようとはしませんでした。
それで東電を退職し、電気に依存しない生活をしています。無理なく自然エネルギーの活用と節電をすれば原子力発電所に過度に依存しない生活ができます。」
その後午後2時46分に東日本大震災発生時間に合わせて1分間の黙祷をしました。
そして集会は終わりデモ行進に。今日は実に変則的なコースに。丸の内緑地を出て、県庁・市役所前へ。それから電車通り南側の歩道を通過して、中央公園を迂回し、京町で流れ解散ということになりました。適度なウォーキングでした。
出口が1箇所で、通行領域は歩道なので、前がつかえてなかなか公園から出られませんでした。
本来通過できるアーケード街や中央公園が使用できないので、なんだか歩いていまして「隔離」されたような気分です。
中央公園とアーケードは「土佐のおきゃく」というイベントが開催されていてよさこい踊りも大音量で行なわれていました。
今日は東日本大震災から1年目の日。無関係にはしゃぐ気分にはなれません。
当日集会に参加された人のブログ記事です。
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