日本は政治だけ立ち直れば大丈夫です
古本で「司馬遼太郎対談集」(文春文庫。1978年刊)を購入しました。そのなかで社会人類学者の梅棹忠夫氏との対談が面白い。本は黄色く変色していています。1987年の発刊だから34年前のことですね。
梅棹「ええ、大学の数は多ければ多いほどいい。少々中身がいかがわしいものがあっても、いずれはそれは修正がききます。
国民総大学出になったら、こんないいことはない。国力としては、結局そのほうが勝ちです。
ヨーロッパのように、人口5000万人の国に大学が10いくつかしかないといったことでは、これからとってもやっていけないと思うんです。」
司馬「大学というところは、バカが利口になるという装置ではないけれど、知的訓練に耐える体質を学生に与えることができる。そういう体質でないとやれないような分野の仕事が、いまやどんどんふえてきているというわけですね。」(P9「日本は”無思想時代の先兵」)
いまから34年も前に、現代社会の特性をこの2人は見抜いていますね。1978年といえば、パソコンは全然普及していなく、インターネットも携帯電話もない時代でした。凄い先見力です。
わたしも某私立大学を卒業させていただきましたが、2人の言うように「そうなのか」と思う。
人生で1番貴重な成長期である中学から高校時代は、社会運動に熱中、学業を疎かにしましたから、大学へはいって社会思想関係の書籍は専攻に関係なく読みました。それはいい経験をさせていただいたと思います。
その後の人生経験のなかでも「自分を相対化する」訓練が出来ましたので、市民自治の考え方が自然に出来るようになりました。
市民1人1人が自分の頭で考え行動し、相手の異論も我慢して聞いて、妥協点を見つける、協力点を見つけると言うことが、日本社会であちことでできるいようになれば、日本社会は大丈夫です。
橋下徹氏のように、「異論を排除」するような極端な考え方では世の中仕切れません。いつまでも市民は劇場の観客であってはいけないと思います。演出も演技も自分でできますから。自分たちが市民社会の主役であることを自覚し、行動すればいいのですから。
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