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2012.03.10

「親鸞」を読んで

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「親鸞」(五木寛之・著・講談社・2010年刊)を図書館で借りて読みました。2008年から9年にかけて全国紙以外の多くの地方新聞に連載していた小説だったらしいです。高知新聞にも連載されていたそうですが、新聞では読んでいませんでした。

 上下2冊の小説でしたが、雨の2月25日に1日で読みました。小説では9歳から32歳までの親鸞や周りの人物が活き活きと描かれ、活劇のような躍動感がありました。五木氏の代表作「青春の門」のような、やんちゃで常に悩ましい親鸞は魅力でした。

 世は平清盛の時代。両親を早くに亡くした9歳の忠範少年(幼少期の親鸞の名前)は、弟3人とともに叔父の家に引き取られていた。後白河法皇が失脚中であり、官僚だった叔父も閑職に追いやられ、生活は困窮状態に。そんななかでも忠範は秀才で利発な少年でした。

 ある日外出の折、大勢の人たちが通りに繰り出していたのに遭遇。それは牛同士を角逐させる闘牛大会でした。堂々たる体格の暴れ牛2頭が対決する寸前、群衆の中から突然石つぶてが牛の頭に当たった。怒った牛は闘牛そっちのけで忠範少年の方角へ突進してくる。人々は逃げ惑い。倒される。そのとき忠範少年を抱えあげ、河原へ逃げ込んだ僧侶がいました。

 その河原では庶民の遺体が散乱し、異臭が立ち込めていました。その僧侶は遺体を川へ流して祈祷していました。話せば元は比叡山で修行していた僧侶と言います。また河原には庶民が集まっていました。牛に石つぶてを投げた人物は、牛飼いなどを束ねる頭領。河原には頭目もいました。忠範少年は学問では学べない深刻な庶民の生活を肌で知りました。

 9歳の頃の出会いがベースにあり、物語は展開していきます。出家を決意し、やがて仏門の最高学府の比叡山延暦寺への入村が認め厳しい修行をしていました。入山して9年目に上司に言われ、法然が布教している現場への視察をし感想を述べよと言われる。

 庶民出身の忠範であるゆえ、庶民の気持ちがわかるのであろうという上層部の思惑でした。10年ほど比叡山にいましたが、あきたらず出奔し法然のもとへ行きます。そして法然の弟子となります。

 時代は平家が滅び、源氏の世の中に。北条氏の鎌倉時代に。法然の念仏教が、あまりに庶民に立脚しているので体制の危機を感じた幕府は念仏の禁止を出します。法然の高弟の1人が河原で斬首刑に。そのとき親鸞が大声で禁止されている念仏を唱えました。多くの民衆が念仏を唱えだします。役人たちは必死で制止しますが止められません。

 物語は法然は四国(土佐の予定が讃岐へ)へ、親鸞は越後へ流罪になります。親鸞32歳。罪人となりましたが妻の出身地の越後への旅立ち、何故だか明るく物語りは終わりました。

 活き活きとした庶民階級の登場人物。いつの世もある上層部の陰謀や謀略などが描かれ退屈しません。

 「あの世で極楽へいくために、お布施を要求する仏教はだめだ。庶民は生きる為には、牛や馬を殺し、作物を収穫し、そのことも従来の仏教では罪といわれる。名も亡き人は河原で行き倒れになる。だれも地獄へ行きたくない。金持ちのよう供え物はない庶民。勉学する余力もない。

 ただただ南無阿弥陀仏と念仏を唱えれば極楽へいけるのだ。仏にすべてをゆだねよ」というなかなかの革命思想でした。

 「善人なおもて往生す いわんや悪人もや」の思想はあらためて考えると物凄いなと思いました。

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