40年前の留年初日の登校日
今日は新学年の始業式の日でしょうか?
大学は留年したり、受験で浪人されたり無駄飯を食らうことは普通にあるでしょうし、恥ずかしいことではないと昔からされておりました。しかし高校での留年(原級留置と当時は言われていました)というのは珍しいと思います。
それであまり皆さん経験したこともないようなのであらためて書きます。
私が当時通学していた高校は県立の高知西高校。そこで40年前に高校3年を留年し登校し、1年通学し卒業したのは私が多分最初でしょう。
1年間アメリカへ留学したりした優秀な生徒も留年はしていたが、彼ら彼女らは推薦入試枠で私立難関大学へ進学していましたから別枠ですね。
40年前の1972年4月の登校日。なにもそれまで高校側から連絡がないので、仕方がないから午前8時過ぎに西高校の職員室へ行きました。そのとき教師たちが発した言葉が40年たっても忘れられません。
「お前何しに来たんだ!」と言う。こちらも思わずむっと来ました。
「留年して学校へ来たがよ。それまでなんちゃあ連絡がなかったきに。」と大声で言いました。明らかに校長以下教師たちは狼狽している様子。「想定外」だったんでしょう。
「わかった。お前が来るとは思わんかった。退学するとおもうちょった。(事実私以外にの4人は転校したり、退学し自衛隊へ行きました。)。お前の編入するクラスの担任を急遽決めんといかんきに。今から臨時職員会議で決める。決まるまで校長室で待ちよれや。」と教頭が言いました。
誰もいない校長室の応接椅子で座って待っていました。結構待たされたので、教職員用の水洗トイレへも行きました。生徒用の汲み取り式トイレと違い綺麗なトイレでした。
20分程度経過して教頭が呼びに来ました。「お前のクラスが決まった。担任はA先生だ。そこへ行くように。ホームルームをしゆうはずだ、」とのこと。歩いてそのクラスへ向う。木造校舎だったので歩くと廊下がきしむ音がしました。
配属を言われたクラスの前の引き戸を開けました。クラスの全員が私を見ました。担任教師に挨拶し、着席を言われたので中ほどの席が空いたいましたので、促されそこへ着席しました。皆の視線がこの日だけは痛く、恥ずかしかった記憶がありますね。
1学年下の連中が同級生になりましたから。そして驚きました。女子の制服がこの年から変り、従来の黒い生地から青系統の生地に変化していまいた。別の学校かと思いました。
翌日思い知ったのは、教科書もすべて変っていました。その日はとなりの席の女子に見せてもらいました。帰りに大橋通りにある教科書販売会社で教科書を揃えるようにと言われました。教科書は買わないとまた卒業できなくなるので買いました。
もう40年も経過しますが、屈辱的な思い(自分の責任ですが)は忘れません。当時の教師は今でも感情的には許せませんね。当局側の教師も共産党系の教師もです。高校では「恩師」と呼べる教師は1人もいません。
それから16年後の1988年に当時高知青年会議所で、春野運動公園で野外ロックコンサートを企画しました。そのとき理解をしていただく為に県教育委員会を訪ねた時に、高校時代の教師が2人在職していました。少しだけ事務的な話しをしたぐらいでしょうか。(そのコンサートも高校をさぼり近くの名画座で「ウッドストック」の野外コンサートの映画を見たことがあり、いつか自分もああいうコンサートをしたかったという願望がありましたね。)
高校生の留年は、すべての科目が「再履修」でした。僅か1単位足りなくて卒業できませんでしたが、体育を含め全部の科目を履修しないといけないという今思えば理不尽な制度ではありましたね。
それから25年後に息子が、31年後に娘が県立追手前高校へ入学しました。子供たちが高校へ通学していた6年間の間に、わたしの西高校時代に在職していた教師は1人も着任してきませんでした。良かったです。もしいたら子供そっちのけでこちらは冷静にいられず、口論をしかけていたかもしれないからです。
高校の「同窓会」は行きません。たぶん今でも行かないと思います。これからも行くつもりはありません。アルコールがはいると40年前に戻りますから。行かないほうがお互い平和でいいんです。侮蔑的は発言を繰り返した教師を今でも許せませんから。
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コメント
ナンチャッテさとみさんコメントありがとうございます。
追手前高校は当時から進学校。優秀でユニークな生徒が多かったんですよ。1クラスぐらい留年していた年も会ったようで、女子も留年していた子がいましたから。
郡部から下宿していた生徒も多く、同級生の女生徒と同棲していた奴もいました。クリスマスパーティだということで呼ばれ、その女生徒の下宿へ行ったことがあります。
皆飲酒してましたが、私は当時は喪y宅等主義者で革命戦士を目指していたのでお酒は飲みませんでした。
追手前はおおらかな校風でした。優秀な生徒が多かったですが、部活に入れ込んでいて、受験を失敗しても一浪すれば難関大学へ進学してましたね。
その点高知西高は、その追手前に追いつき追いこせの校風で、校長や管理職が強権的でおおらかさが全くない学校でした。
毎日朝英語の小テストがありました。その配点が20点でした。赤点が35点です。それを真面目にやれば20点も持ち点がありましたが、わたしは受けていないから0点。
校門前でビラを撒き、そのまま他校の支援に行ってましたから。校内では殆ど活動できませんでした。
でもそうして学業を投げ出して参加した左翼の活動はお粗末で今思えば人間を大事にする組織や運動体ではありませんでした。
学業も駄目、運動もだめという「どうしようもない」情けない状態でした。40年前は。
それでも留年してもう1年行こうと思ったのは両親の支えと、1学年下に当時好きな女生徒がいたからでした。たわいもない理由といえばそうでした。
留年して40年前は今日で3日目。留年生活にも慣れはじめた頃です。その頃から「人生なるようになる」と思っていましたね。
投稿: けんちゃん | 2012.04.10 08:00
2回読み返しました。私は追手前OBで、けんちゃんとほとんど同年代ですが、同じ県立高校なのにこうも違うモノかと。。。
例えば追手前では、留年する生徒は普通にいましたよ。2年の時、私のクラスには2人いたように記憶しています。先生も熱血漢が多かったですね。
数学の問題を放課後教えてもらった時の事です。解説が終わった後「お前、授業でも言うたけど、この問題集がお勧めぞ。なに?買うてない?どうして買うてないがな?」 私が即答しなかったら「親が買うてくれんがやったら、俺が買うちゃろか?」
「問題集ぐらい自分で買えます」と答えたと思うのですが、とにかく理由を聞くと、自分達の担任が職員会議で「数学、俺のクラスだけどうして臨時ながな」と一席ぶったそうです。で、彼曰く「臨時言うても授業が終わってすぐ帰りゆうワケでもない。他の先生と同様、放課後までおる。臨時には臨時の意地がある。」 と。・・・この台詞、今でもまざまざと覚えています。
どっちも熱いでしょう?このテの話、他にもあります。
私の方がずいぶん恵まれていたんだなぁと思いました。
投稿: ナンチャッテさとみ | 2012.04.10 01:34