「真贋」を読んで
「真贋」(吉本隆明・著・講談社・2006年刊)を読みました。高知市の書籍店金高堂が吉本隆明氏コーナーを店頭にこしらえていましたので、購入しました。
まず善悪二元論の限界を吉本氏は言います。「本を読むことに利と毒があると同じように、あらゆるものに利と毒があります。たとえばお金儲けをすることにも利と毒があります。」(P33)
このところ3月16日に吉本隆明氏がご逝去されてから、両親と同世代ということもあり、著作を読み出しました。確かに吉本さんの「文章」にも「毒がありますね」
「試行」誌に連載されていた巻頭の「状況への発言」なんかも、なかなか扇情的な文章であり、当時学生運動や社会運動を担っていた若者層は吉本隆明氏の著作を無さ振り読んでいたと言いますが、これは「中毒」になっていたんでしょう。わたしは毛沢東主義者でしたから、吉本中毒には、当時はなりませんでした。
物事には両面があり、YESかNOかの2元論では処理できない事柄が世の中たくさんありよ。と吉本氏は述べていますね。
「たとえば、前思春期に貧しい生活を送った人が、その反動で、将来お金持ちになりたいと思うのは、与えられた運命に逆らっていないことになります。
もしその人が本当にお金持ちになって、うまく成功したら。それは非常に立派なことであるという考え方を、僕はもっています。」(P43)
左翼の人たちは、それはけしからんとか、言うけれども、それは違うだろうと吉本氏は言い切っていますね。それが面白い。
「マルクス流の理屈からすると、自然に対して何か働きかけたら、利潤というか剰余価値が必ず出てきます。剰余価値を生むために働きかけるのですが、その剰余価値は何らかの形でその人に帰するわけです。
その剰余価値を悪く使わないのなら、何も文句を言われることはない、という理屈になります。
しかしスターリン以降の左翼の人は、なかなかそのことを納得してくれません。けしからん、癪にさわると言うのです。そこには個人的感情とか、嫉妬とか、いろいろなものが入ってきてしまうわけです。
中略
でもお金持ちになったからと言って、どこかに寄付をしなければならないとか。施しをしなければならないとかというと、それは違います。お金持ちになったら心の向くままに贅沢をしたり、うまいものを食ったり、旅行に金をつかうのは、別に悪いことでも何でもなく、あくまで自然だと思うのです。」(P45)
2006年ですから6年前に81歳の吉本隆明氏は、日本が一次リーグで惨敗した試合(オーストラリアに1-3で逆転負け)についても、的確な分析をされていました。
「日本の状況が最低に近いと言う兆候はいろいろなところで出ています。
少し前に行われたワールドカップのサッカーの試合も例外ではありません。
世界的なレベルの相手と試合をして負けたとき、その負け方は単にスポーツの試合をして負けたと言うよりmチームが壊れたというような負け方でした。
残り10分とか5分になってから何点もとられる形で負けて、みんながっくりしてしまう。これは負けたというより、まさに崩壊したという表現がぴったり来ると,僕はワールドカップを観ていてそう思いました。」
「専門家はいろいろな批評をしていましたが、それはいい加減な批評だと思います。
僕らの文学から敷衍した考え方からいけば、元気で身体がよく動く若い選手と、体の動きはちょっと衰えても技術ははるかに上で、状況判断に優れたベテラン選手の間の、認識上の分裂と、心の構造の分裂の2つが著しいことにより、崩壊状態になったのだと思います。
スポーツの問題ではなく、これは精神の問題だと思ったわけです。
中略
「たとえば中田英寿が、「自分がこう蹴れば、その先で誰かが受けてくれるはずだ」と思って蹴っても反応してくれない。そこには技術の問題もあるし、練習で連係がうまくできていないということもあるのでしょう。
結局のところチーム内がまとまっていないということで、ああいう結果になりました。勝った、負けたではなくてチームの崩壊だと見ると、現在の日本の社会構造と類似しています。象徴的に、世の中がああいうふうになっているという類似点があります。」
「それではどうすればいいかというと、そこのところが問題です。1つはサッカーで言えば、一緒に練習したり、連係プレーができるような練習時間をたっぷりとってやること、それは、日本社会にあてはめてみれば、道徳、あるいは武士道を回復すれば世の中がよくなるということと同じことだと思います。
要するに、チームワークがよくなるように、とりあえずはチーム全体で練習しておけば、それなりの力は発揮できるだろうというわけです。
たしかに、社会的現場で武士道や男気が大切にされれば、道徳は回復するだろうというのは、もっともな意見だと思います。しかしそんなことが、簡単に出来るくらいなら苦労しません。日本の社会は、すでによくなっているはずです。
それができないのはなぜかと言えば、時代の発達のスピードが速すぎて、もはや、武士道や男気で何とかするというやり方では間に合わないほど、現状が進んでしまったからです。
世界全体のサッカーの技術が進んでいれば、それをまず取り入れることをしなければ、いくらチーム全体で練習をしても、あまりいみがないことと同じです。
つまり道徳を復活させるというのは、単なる復古的な考え方にすぎなくて、それでは到底間に合いません。
その前に、いまの状況をどうとらえるのか、ここだったら全体的に超えられるということを考えて見つけてやる以外ではないのです。」(P248)
吉本隆明さんは遺言めいたことも言われていました。
「あれほど未来性をもったマルクスのような人でさえ、人類がこのような時代に直面するとは予期していませんでした。世界の現状や個々人の考え方や生き方がこうまで問題の多いものになるとは思っていなかったと思います。
中略・・・・。
「よさそうでかつ害のなさそうなことやる。小規模でもやっていくということ以外にこの新しい時代に対処する方法はないように思います。
これは科学的に社会のことを考えてきた人も想像していなかったろうと思います。そこが現在の1番の問題かもしれません。
何はともあれ、いまは考えなければならない時代です。考えなければどうしようもないところまで人間がきてしまったということは確かなのです。人間というのは善も悪もやり尽くさない限り新しい価値観を生むことができないのかもしれません。
いまいくつくところまできたからこそ、人間とは何かということをもっと根源的に考えてみる必要性があるのではないかと思うのです。」(P251「今の見方、未来の見方」
吉本隆明氏と同世代の両親と同居し、懸命に介護予防の手助けをしながら、毎日懸命に小さな企業をやりくりし、地域(高知市二葉町)の自主防災会活動をやっている。300メートル四方の世界からしか物事を考えることができない私です。
案外していることが「的を得ているのではないか」と読んでいて思いました。
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