安心できないファシズムについて
過日「安心のファシズムを読んで」という記事を個人ブログへ書きました。ベースにあるのは民主主義の手続きや合意形成作業や議論にうんざりした大衆の多くが、「自由」を放棄し1人の独裁者に己の運命まで委ねてしまう。
エーリッヒ・フロムの「自由からの逃走」がベースになっているようでした。
「安心のファシズムを読んで」(個人ブログ)
ブログに書いたことの一部のを引用します。
「現在の高度な情報化社会。米国製のI-padの発売に狂奔する人たちを観察していますと、なんだか不安になります。
携帯電話。住基ネット、ネット家電。自動改札機など便利なテクノロジーにちらつく権力の影。人間の尊厳を冒され、道具になる運命をしいられるにもかかわらず、それでも人々は「安心」を求める。
独裁者の強権政治だけでファシズムは成立しない。自由の放擲と隷従を積極的に求める民衆の心性あってこそ、それは命脈を保つのです。(あとがきより)
多くの人々が、何者かに対する不安や怯えや恐怖や、その他諸々がないまぜになった精神状態が、より強大な権力と巨大テクノロジーと利便性に支配された安心を欲しているかのようです。
権力に無条件で服従しない人が現れると徹底的に叩かれるのはこのためです。本来自由な精神を保つ為に必要な読書にしても、ネットで「読まれている本ランキング」で調べ、より読まれている本しか「読まない」人が多いとも聞きますね。
最近の新自由主義なるものは粗悪なるグローバル資本主義。
「グローバル経済競争にとって無駄になるような要素(社会保障や医療費や教育費用など)を徹底的に排除して、金があったら、外国資本の誘致に使う、そんな国家のあり方が構想されてしまっいている、というわけだ。」(P159「ネオ封建時代への構想」)
まさに粗悪な「新自由主義」の標榜ではありませんか。
「新自由主義は「小さい国家」でなければならないということを言ってはいますが、アメリカは「大きい国家」を新自由主義のなかでつくることに成功しました。なぜかと言うと新自由主義の考え方では、最小限に切り詰めた国家の役割は「夜回り」である、つまり市場経済に邪魔になるものは取り除いてもらわなければばらないということです。
最近の日本で言えば、大阪市長の橋下徹氏は、なんでも「次期総理候補」であり、彼の率いる「大阪維新の会」とやらが、国会でも多数を占めるのだと言います。果たしてそうなのか?またそれは日本国にとって良いことなんでしょうか?
最近では「大阪都構想」もあまり言わなくなりました。やったことといえば学校現場で「君が代」の強要と異端者狩という教育現場にファシズムを持ち込んで得意になっていること。また維新の会とやらは、発達障害の人たちを露骨に差別する発言を繰り返して、見識のなさ、底の浅さを見せ付けました。
こんなていたらくなグループでは到底「安心のファシズム」とは言えませんね。
「安心できないファシズム」の台頭は日本の将来を台無しにする愚行でしょうね。
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コメント
村中花火さんコメントありがとうございました。
>より読まれている本しか読まないなんて、テストでいい点取るための日本の教育そのものですね。
ご指摘のように「教育」の効果もありますが、ネットの「噂」や「評判」を無条件に信用する知的水準の低さもありますね。
ネットでは「仕掛けが」必ずあり、どんな邪悪な意図で書かれているのかわからないものもあるんだと思わないといけないです。
自分で情報を精査することをしない人は、もはや人間ではないでしょう。
投稿: けんちゃん | 2012.06.30 06:55
自ら考えることを放棄して、与えられた不自由を自由と錯覚する・・・恐ろしいですね。
本を選ぶというコトは、人生において、その時一番必要な言葉と出会うコト・・みたいな部分もあると思うので、若い人は是非書店に足を運んで、自分だけの本に出会って欲しいと思います。より読まれている本しか読まないなんて、テストでいい点取るための日本の教育そのものですね。
投稿: 村中花火 | 2012.06.29 23:35