「電力と国家」を読んで
「電力と国家」(佐高信・著・集英社新書・2011年10月刊)を読みました。時節柄関心があったからです。2011年3月11日の東日本大震災で、福島第1原子力発電所は、地震と津波で大きな被害を受け、未だに放射性物質を大気中に放出し続けています。
東京電力の「非常識な発言」や「対応」。政府側もなぜ毅然とした対応ができないのか。安全性が担保されない段階で、夏場の電力不足を理由になぜ原発の再稼動(福井県大飯原発)を電力会社も政府も急ぐのか。そのあたりの理由が知りたかったので、この本を購入し読みました。
新書の扉に佐高信氏は、こう記述しています。
「軍部と革新官僚が手を結び、電力の国家統制が進んだ戦前、「官吏は人間のクズである」と言い放って徹底抗戦した「電力の鬼」松永安佐エ門。
原爆の洗礼を受けている日本人が「あんな悪魔のような代物を受け入れてはいけない」と原発に反対した木川田一隆など、かつで電力会社には独立自尊の精神を尊び、命を賭して企業の社会的責任を果たそうとする経営者がいた。
フクシマの惨劇を目の当りにした今こそ,我々は明治以来「民VS官」の対立軸で繰り返されてきた歴史を徹底検証し、電力を「私益」から解き放たなければならない。
この国に「パブリックの精神」を取り戻すところから、電力の明日を考える。」(扉)
このあたりが佐高信氏の狙いでしょう。
現在は全国9電力民営会社の電力会社。それが確定したのは敗戦後の占領時代であります。戦前は多数の電力会社が自由に競争していました。昭和のはじめからの戦時体制で、電力は,国家統制の対象となりました。戦争を遂行したい軍部と、ナチスドイツやソ連をモデルにした統制経済を推進したい官僚との連合が成立。経済の統制が進もうとしていました。
「官僚たちがこぞって立案していた経済統制の法律のほとんどは、スターリンのソ連か、ドイツのヒトラー独裁国家のコピーだったのである。
昭和恐慌から始まった深刻な不況、失業者の増大、そして相次ぐ政財界の汚職事件に見る腐敗、堕落ブリに。官僚たちは自由主義経済の限界を感じていた。このままでは日本の未来はない。強いリーダーも下、国を立て直さなければという使命感で世界を見れば、ヒトラーとスターリンが綺羅星のごとく輝いていた。
資本主義は、不平等と堕落した拝金主義者を生むばかり。国家を統制するために自由を規制する管理、統制が必要だという考えが、官僚たちを支配しつつあった。ヒトラーとスターリンという右と左の独裁者は、その巧みなプロパガンダと統制経済で、自国民の洗脳だけでなく、他国の革新派にも多大な影響を与えていたのである・」(P43「国家管理という悪夢」)
なんだか今の二日本社会でも一部通用する現象ではありますね。強いリーダー論がマスコミで唱えられ、「安心できないファシスト」たちが盛んに持ち上げられていますから。(橋下徹氏と大阪維新の会など)
命の危険もあるなかで、松永安佐エ門は統制反対の論陣を張ります。
「国有化されれば、自由な企業家精神は死ぬ」と松永は言い放ち最後まで統制経済に反対しました。それは慶応義塾で福沢諭吉に直接指導を受けた自由精神を、企業経営者として身をもって示したのでした。
しかし抵抗もむなしく昭和15年仁電力会社はすべて国有化されてしまいます。松永は隠居を決め込み表舞台から去りました。松永は「不死身」でした。敗戦後隠居先から現れ、官僚を無視し、GHQと直談判していきます。
敗戦後も統制経済色の強い財界の意向を無視し。松永安佐エ門は、GHQのキーマンであるケネディ顧問を説得し、自説の9電力体制を認めさせたのです。
これほど独立自尊の福沢諭吉の経済精神を体現して人物が意味の親である電力会社。その親玉である東京電力。いつの時点から今日のていたらくなどうしようもない会社になったんでしょうか。
それは佐高信氏は、松永安佐エ門の後継者である東京電力の木川田一隆氏の変質だといいます。当初は強固に原子力に反対していました。ところが国側が電源開発という国策会社をこしらえ、そちらで原子力発電を稼動させようとしました。
戦前と同様に原子力を国家統制にされては困るという木川田氏の強い思いが原子力発電を電力会社が運営することでした。佐高信氏がそれが不幸の始まりと言います。
「しかし、この遺恨試合の戦場となったのが、原子力発電といういかがわしさの象徴ような「怪物」であったことが。不幸の始まりだったのかもしれない。
日本の原子力開発は、しょっぱなから官僚機構と電力会社の陣取り合戦の材料にされた結果、当の「怪物」に対する慎重な論議、警戒が、かるんじられたきらいがあるからだ・」(P140「9電力体制、その奢りと失敗」
当初東京電力は原子力発電を国家管理にされたくない一心で、懸命に企業努力をし、時に批判を受けながら電気料金も値上げして収益を確保し、国につけ込む隙を与えなかった。
また木川田一隆氏の出身は福島県。ことさら大熊、双葉地域は貧しく有望な産業を誘致した。でもそれは危険な「悪魔」である自覚があって誘致したのです。
しかし松永や木川田の企業家精神は、平岩外四の時代に,完全に失われ、国との緊張関係はなくなり、癒着するようになりました。佐高信氏はこう言い切ります。
「役所と一体化し、その緊張関係を失った電力会社は、いまや役所以上の役所になったしまった。地域独占、総括原価方式。発送電一体という3つの特権をほしいままにし、1人勝ちを続けてきた。1995年から電力の1部自由化が行われるが、送電線を握っているのは電力会社だから、その独占体制はほとんど変わっていない。」
「役所と電力会社は互いに便宜を図りあうばかりで、原子力ムラのチェック機能というのはなきに等しい。最大の不幸は、そういう人間たちが原発という「怪物」を扱っていたということである。
「怪物」の安全審査をす経産省の原子力安全・保安院の委員が、許可を申請する電力会社側とつながっている、あるいは同一人物などということが平然と行われてきた。
だからこそ、今回の福島の原発事故は「人災なのである。」(P155)
佐高信氏はあとがきでこう述べています。
「損害賠償額は10兆円にも達するといわれる。それを支払う能力がなければ東電は倒産するのが普通だが、それでは困るからと、様々な救済策が出されている。しかし東電が倒産して、誰が困るのか?
確かに経営者や社員は困るだろう。出資している株主や大銀行、それに社債を買っている人間も困るが、そのリスクを承知で株を買い、融資をしているのではないか。
日本航空は倒産させ、会社更生法によって再建を図っている。どうして東京電力は倒産させられないのか。資本主義の社会のはずなのに、突如そうではなくなる日本の縮図を見たような東電の株主総会だった。」
中略
「今後、電力会社と国家をめぐる問題にどのような対立軸を構築し得るか。試されているのは、新たな公に対する思想と行動なのである。」(P171「おわりに 試される新たな対立軸」
この著作を読むと、さしずめ「3・11」当時日本国首相の菅直人氏は、単身「伏魔殿」である東京電力本社へ乗り込んで、「撤退は許さんぞ!」と叫んだという。あるマスメディアや政党関係者は「ドンキホーテ」的な愚行だと冷笑する。
わたしは、そうではないと思いますね。今まさに大飯原発が再稼動することが政府で決められました、。同時に菅前首相の「奇行」をあげつらい、[総攻撃」しています。なんだかおかしいとわたしは思います。
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