
「大杉栄評論集」(飛鳥井雅道・編・岩波文庫刊)読みました。大杉栄といえば、アナーキストで、 女性関係でどろどろの人。関東大震災時に憲兵隊に殺害されたという事前知識しかありませんでした。
1885年に生まれで、1923年に殺害されています。38歳の生涯でした。陸軍幼年学校を中退し、東京外語大を卒業。幸徳秋水や堺利彦らの平民新聞を訪ね、日本社会党に参加し逮捕・拘禁。
クロポトキンの翻訳や新聞条例違反で逮捕。拘留。赤旗事件で逮捕拘留中に大逆事件が起こり、交流されていたことで処刑は免れました。社会運動が圧殺された冬の時代にひたすら明りを灯しました。
1917年のロシア革命後当局の取り締まりも厳しく、1923年の関東大震災の戒厳令下に憲兵隊に虐殺されました。
評論集は1912年から1922年までが収められています。100年前の文章ですが、現代文で書かれていましてとても読みやすいです。感心しました。
「雑誌といえば、今日の日本の文芸雑誌の中で、僕は「白樺」が1番好きだ。創作にしろ評論にしろ、「早稲田(文学)」や「三田(文学)」や「帝国文学」などのとてもおよばぬ味と深みと強みがあるようだ。
「白樺」の人たちは貴族の坊ちゃんといわれるのが何よりも嫌いだという。しかし事実は事実に違いない。そして僕はこの事実から、あの人たちの行動を少なからざる興味を以って見ている。
由来貴族は、物質的にも、そして善い意味にも悪い意味でも、社会の同化者として大役を務めたものである。彼らは至る所の新発明品や奢侈品を、思うままに外国から輸入した。
そして平民が万事その国の文物の中に閉じこもっている間に、彼らはいち早く、諸外国の粋を集めたコスモポリタンに成りすましていた。平民が随分荒い思想や趣味の中に閉じこもっている間に、彼らは既にいやが上にも純化を重ねられた。そしてそれがぜんぜん平民の間に模倣された。
フランス革命当時の話に、貴族同士の間にはまったく階級的精神が滅ぼされていたけれども、平民同士の間には厳重に幾段かの階級が守られていたという。今日でも親が子供に比較的に自由にしているのは貴族だ。
平民は理屈をいくら言われてもわからない。そして今の中から親の言う事は何でも聞くように仕込んでおかなかったら,私たちが年とってからどうして子らに食わしてもらえましょう、などという。
「白樺」はこの貴族の血を受けて、そして一面において父祖からの悪癖に反抗すると同時に、他面においては成り上がりのブルジョワジーに反抗する。若い貴族の人たちから成る。
僕らは「白樺」を見るたびに、見るたびに、いつもトルストイやクロポトキンの少年時を想う。トスルトイやクロポトキンは「白樺」の連中のような若い貴族が、更にもう1つの改宗した人じゃあるまいか。」(P28 「座談」1912年)
とても100年前の文章とは思えない現代性がありますね。意外にも大杉栄は、貴族趣味文化といわれた白樺派、武者小路実篤や志賀直哉を高く評価していることですね。貴族であれなんであれ、「自由なる精神」「とらわれない文化」に憧れていたのは意外でした。
最近内田樹・著作の「街場の文体学」を読みました。そのなかにも同様のことがかかれていましたね。
長い引用ですが、大事なことと想いますので書いてみます。
「日本人のエクスチュールは「おばさん」と「やくざ」と「やんきい」というようなしかたで水平r的に多様化しています。でも、ヨーロッパではそうではない。上下に階層化している。上層のエクリチュール、中間層のエクリチュール、下層のエクリチュールというふうにはっきり区分されている。」
「どういうふうに違うかというと、上層のほうがエクリチュールが「ゆるい」んです。標準化圧力が弱い。ヨーロッパでは上層へ行けバイクほど階層的な縛りから自由になれる。「上の人」は、何を着てもいい、どんな言葉づかいをいしてもいい、どんなところで、どんなふるまいをしてもいい。
節度のあるふるまいをすれば「気取らない人だ」と言われ、誇示的な消費をしたり、醜聞を撒き散らせば「さすが奔放だ」といわれる。何をしてもつきづきしい。」
「逆に下層にいくほどそういう自由は失われる。階層的な締め付けが厳しくなり、自由度はどんどん少なくなる。話し方も表情も身体運用も価値観も美意識も「ロック」されてしまう。
それ以外のふるまいができないようにお互いを監視する。そこから逸脱するときびしい閥が与えられる。下層階級なのにクラック音楽を聴いたり、詩を読んだり、クリケット観戦とかいうことは許されない。
ラップを聴いて、テレビを見て、サッカー観戦することを強いられる。他の誰でもなく、自分たちの属する集団から禁圧される。そして本人たちはそんなふうにお互いの自由度を制約し合っていることには気がついていない。
自分たちの間にしか通じないジャルゴンで話し、自分たちの集団固有のファッションで身を固め、自分たちの価値観を譲らず、仲間内から「毛色の変わった固体」が出てくると、きわめて非寛容に接する。階層内のふるまいの自由は、下層へ行くほど失われる。
つまり、階層社会というのは、単に権力や文化資本の分配に階層的な格差があるということだけでなく、階層的にふるまうことを強いる標準化圧力そのものに格差があるということです。」(P127「エクリチュールと文化資本」)
これは文化や教養が人をより差別し、格差を固定化するものとして大きな力を欧州諸国はあるなと思いました。なんとおぞましいことであると思いました。
「日本人は、教養と言う言葉にほとんど政治的な力は感じませんが、ヨーロッパでは、教養は階層再生産につよい力を発揮します。中略 学歴とか,音楽や美術についての趣味のよさとか、テーブルマナーとか、ワインの選択とかは、所得階層を示す身体かされた指標であり、文化的な格差の再生産装置なのです。」(P131)
大杉栄と内田樹は、100年の時を経て、ほぼ同じ事を言われています。貴族階級は自由なるフランクな精神を獲得している。それに引き換え庶民階級はなんと縛りが多く、自分たち同士で牽制していつまでも下層から脱却できないでいる。なんという嘆かわしさであろうか。
小泉内閣以降の日本を格差社会にする政策はまさに、これです。階層の固定化です。
大杉栄の評論には、ロマンロランやトルストイやドストエフスキーや有島武朗なども出てきます。わたしと読書傾向が似ているので親しみが沸きました。
一方で大正時代に勃興した吉野作造氏らの民本主義や労働運動を徹底的に批判しています。
「そしてそれについて生死生の議論の根拠は、1つは無政府主義の社会へ行くのはボルシェビキズムを通過しなければならないという事と、もう1つは協同の敵に対しては協同で当たらなければならないという事からしか、無産階級の手に始めて移されたロシアの政権を支持することこそ、よかれ悪しかれ協同目的を有するものの現在の任務であり、当然の義務であると考えられたものらしい。」
「一足飛びに天国へいけるかはどうかは僕も疑う。しかし無政府主義へ行くにはまず社会主義を通過しなければならぬとか、ボルシェビキズムを通過しなければならぬという事は、僕らは無政府主義の敵が考えた詭弁だと思っている。
ロシア革命の最初の頃はレーニンを初めボルシェビキどもはそんなことを言った。日本でも共産主義の最初の宣伝時代はよくそんなことを聞いた。が、ひと通りその効果を見たあとでの、彼らの無政府主義者に対する態度はどうか。彼らはまるで資本家の次は無政府主義者だとういう具合しゃないか。」(「生死生に答える」P252)
いわゆる無政府主義というのは、19世紀から20世紀にかけて一種の理想主義として世界各地で広まりました。しかし官僚主義的な共産主義や、その裏返しのファシズムやナチスの台頭で下火になりました。
日本でも幸徳秋水が大逆事件で処刑(1911年)され、大杉栄が虐殺(1923年)されてから、衰退したようです。
しかし今回大杉栄の評論集をじっくり読みましたが、問題意識が鋭く、官僚主義の否定と、自由への渇望が強く感じられました。
国家論や社会論を考える場合も思想的機軸として無政府主義というものを検討する必要を感じました。また過去共産党関係者から否定され続けてきた、ザンジカリズムや、空想社会主義(ロバート・オーエン)などの思想の検証も必要だろうなと思うこのごろです。
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