吉田茂の存在価値
NHKの総合で吉田茂をモデルにしたドラマが5回連続で放映されるようです。9月15日に2回目が放映されたようですね。
私が中学2年生のいとき、吉田茂氏が逝去され、中学の教師が「国葬となるので、学校は昼から休み。ご冥福を祈るように。」と言っていました。当時の私は毛沢東主義を信仰していたので「保守反動の親玉が死んで何で国葬なのか。馬鹿馬鹿しい」と思いました。
一般的には、吉田茂氏は、サンフランシスコ講和条約を締結し、その傍ら日米安保条約を秘密裏に米国と結びました。朝鮮戦争時には、米国の要請で警察予備隊を編成。後に自衛隊となります。再軍備を進めた保守反動の政治家。そう思っていました。
確かに思想的には尊王主義者。GHQの民主化案にも反対しているところがあったようです。治安維持法廃止には反対であったとか。
GHQによる戦犯追放など偶然が重なったとはいえ、吉田茂氏が日本国首相になった1946年(昭和21年)には、68歳でした。当時の日本人の平均寿命は50歳代。現代で言えば80歳代の首相の誕生ぐらいの老人宰相でした。
GHQ総司令官のマッカーサー元帥となぜかうまが合い、敗戦後日本の占領軍統治と日本社会の再建に吉田茂氏の存在はとても大きいのではないかと思う。
真骨頂は朝鮮戦争の時に、米軍の要請を断り、朝鮮半島に日本兵を派兵しなかったことですね。米国は資金も武器も供与する。日本兵士10万人派兵してほしい。という要望を吉田は丁重に拒否しています。このところをドラマが描くかどうかはわかりません。
吉田茂は、アジア諸国がいくら米国の要請とはいえ、再び日本兵士が朝鮮半島に従軍することを快く思わず警戒心を露にすることを恐れていました。アジア諸国が敗戦後日本の市場とならなければ、日本の経済の再生もありえないからです。
執拗な米国の要請に対して、吉田茂は日本国憲法まで使用し、「米国が日本人に押し付けた憲法には戦争放棄とあるぞ。」と言い放ち初心を貫きました。この結果、日本は軽軍備と、経済優先政策を貫くことが出来て、後に吉田茂の弟子の池田勇人首相時代には、高度成長の波に乗ることができるようになりました。そして日本は経済大国になりました。
吉田茂は小泉純一郎や安倍晋三のような対米追随者ではありませんでした。米国は吉田茂を警戒し、1948年(昭和23年)にGHQは東条英機らA級戦犯を、12月23日(今上天皇の誕生日)に処刑します。その翌日A級戦犯の岸信介を巣鴨拘置所から釈放。そして多額の工作資金を与え吉田茂の対抗勢力としました。
岸信介の孫の安倍晋三が「戦後レジ-ムの打破」とかわけのわからないスローガンを叫んでいましたが。吉田茂氏の構築した戦後の体制の前にあえなく砕け散りました。
むろん総てが素晴らしかったわけではありません。日米安保条約の締結は、結果的に米軍基地の沖縄集約と固定化を推し進めたことも弊害です。日本人が国家観や防衛意識が希薄になった原因をこしらえてしまったことも弊害と言えるからです。
以前吉田茂関係の著作を読みました。個人ブログにコメントしています。
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コメント
A級戦犯でも広田弘毅は一言もしゃべることなく処刑されました。岸は満州国建国の段取りをした官僚で戦犯中の戦犯。アメリカに助けられたのです。
その後は対米一辺倒政策の推進でした。
アメリカは「保険」に岸信介の勢力をこじらえたのです。最近でもその系譜は自民党でも「清和会」ですね。森ー小泉ー安倍ー福田です。対米従属でアメリカの言いなりですね。
投稿: けんちゃん | 2012.09.17 13:40
私も吉田茂の国葬の時には、「保守反動の政治家」くらいの印象しかなかったのですが、色々よんでいると、アメリカ相手になかなか厳しい要求を押し通していますね。このような交渉のできる政治家が、本当にいなくなってしまったのは淋しい限りです。
小選挙区制になって、評価するしないはともかくとして、吉田のようなスケールの大きい政治家が見当たらなくなりました。
今の政治家のレベルでは相手国の言うことを聞くことが外交だと考えているのかと思うほどです。これではいつまでも対等の関係にはなれませんね。
アメリカが岸信介を吉田茂の対抗馬にしようとしていたことは初めて知りました。
投稿: しばやん | 2012.09.17 13:15