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2012.09.27

「街場の文体論」を読んで

Uchidamachibahonmm
 「街場の文体論」(内田樹・著・ミシマ社・2012年刊)を読みました。金高堂書店の店頭で見かけました。後に郊外の大きな宮脇書店で探しましたが置いていません。当日は暑かったので休日でしたが珍しく高知市中心街商店街へ車で乗り付けました。近くのコインパーキングに駐車し1680円で購入しました。新刊本です。

 内田樹氏は、30年間神戸女学院大学に勤務され退官されました。」退官前の授業の講義を書き下ろしたものでした。内田氏の著作を読んだのは初めてでしたが、歯ごたえがありました。

 つかみは「言語にとって愛とは何か?」です。文章論ですが、「説明する力の高い3人の作家」として、三島由紀夫と村上春樹と橋本治を上げています。

「説明のうまい作家に共通するのは、遠くから、巨視的・一望俯瞰的に見たかと思うと、一気に微視的な距離までカメラ・アイが接近する、この焦点の行き来の自在さです。」(P11)と内田氏は言い切ります。
 
 そして「読み手に対する敬意」を払っていただきたいことを強調しています。」。読み手に対する愛がなければいけない。うまく書くことでも、正確に書くことだけでない。「気持ちよく読んでいただくため」に書く事であると。

「自分のなかにいろいろなタイプの読者像を持っていること。それが読みやすい文章を書くときの1つの条件ではないかと思うんです。」(P22)

 電子書籍についても内田氏はこう述べいぇいます。

「電子書籍によって紙の本がなくなってしまうという人がいますが、そういうことを言う人は本をあまり読まない人ではないかと思います。

 いや、最新の情報にキャッチアップするために、情報を入力のために本を読むことをするけれど、わくわくどきどきしながら時間を忘れて没入するために本を読むという経験があまりない人じゃないかと思います。」(P59「電子書籍と少女マンガリテラシー」)

 2012年3月に逝去された吉本隆明氏についても内田樹氏はこう述べています。

「戦前の自分自身をかたちづくったもののうち、「これだけは信じられる」というものを切り取って、救い出したということを切実に願った。それが吉本の同世代の人の特徴です。

 彼らより年長の人たち、この戦争には行かなかった人たち、「勝った戦争」を原体験にしている世代は、そんなにナイーブではありません。ただ看板を付け替えただけでわりとあっさりと戦後日本に適合できた。

 でも吉本や江藤(淳)もそんな風に簡単に看板をおろすわけにはいかなかった。少年期の」終わりに敗戦に遭遇した世代には、それしか「手持ちの人生」がないんですから。それを否定しろと言われても、できるはずがない。

 少年期のみずみずしい感受性を持って生きた戦争の日々を、どうやって戦後につなげるか。それがこの世代に固有の思想的課題になる。それが彼らの思想的な純度と成熟をやがてもたらすようになるわけですけれども、その江藤淳も吉本隆明も外国語訳がない。

 たぶん外国の言葉にはよく意味がわからないから。何もそんなに必死になっているのが外から見るとわからない。」(P106「世界性と翻訳について」)

 吉本や江藤の時代とはスケールは違いますが、わたしも少年時代に身に着けた毛沢東思想があまりに粗雑で低レベルであったことに愕然としました。人生の1番良い時代のよりどころがないことは辛いことです。それは思います。

 吉本隆明の思想は「本質的には世界的な思想だったのだけれども、世界各国の地域性がそれを受け入れるだけの成熟に達していなかった。そういう形で翻訳されていない。

 吉本があらゆる国の人々が目を背けようという事象を扱っているからなのだと僕は思います。」(P114「世界性と翻訳について」)

 内田樹氏はフランス文学を学んだ人でした。日本では考えられない、感覚的にわかりにくいフランスの階層社会をエクスチュール(文体)を使って的確に説明されています。

「日本人のエクスチュールは「おばさん」と「やくざ」と「やんきい」というようなしかたで水平r的に多様化しています。でも、ヨーロッパではそうではない。上下に階層化している。上層のエクリチュール、中間層のエクリチュール、下層のエクリチュールというふうにはっきり区分されている。」

「どういうふうに違うかというと、上層のほうがエクリチュールが「ゆるい」んです。標準化圧力が弱い。ヨーロッパでは上層へ行けバイクほど階層的な縛りから自由になれる。「上の人」は、何を着てもいい、どんな言葉づかいをいしてもいい、どんなところで、どんなふるまいをしてもいい。

 節度のあるふるまいをすれば「気取らない人だ」と言われ、誇示的な消費をしたり、醜聞を撒き散らせば「さすが奔放だ」といわれる。何をしてもつきづきしい。」

「逆に下層にいくほどそういう自由は失われる。階層的な締め付けが厳しくなり、自由度はどんどん少なくなる。話し方も表情も身体運用も価値観も美意識も「ロック」されてしまう。

 それ以外のふるまいができないようにお互いを監視する。そこから逸脱するときびしい閥が与えられる。下層階級なのにクラック音楽を聴いたり、詩を読んだり、クリケット観戦とかいうことは許されない。

 ラップを聴いて、テレビを見て、サッカー観戦することを強いられる。他の誰でもなく、自分たちの属する集団から禁圧される。そして本人たちはそんなふうにお互いの自由度を制約し合っていることには気がついていない。

 自分たちの間にしか通じないジャルゴンで話し、自分たちの集団固有のファッションで身を固め、自分たちの価値観を譲らず、仲間内から「毛色の変わった固体」が出てくると、きわめて非寛容に接する。階層内のふるまいの自由は、下層へ行くほど失われる。

 つまり、階層社会というのは、単仁権力や文化資本の分配に階層的な格差があるということだけでなく、階層的にふるまうことを強いる標準化圧力そのものに格差があるということです。」(P127「エクリチュールと文化資本」

 これは文化や教養が人をより差別し、格差を固定化するものとして大きな力を欧州諸国はあるなと思いました。なんとおぞましいことであると思いました。

「日本人は、教養と言う言葉にほとんど政治的な力は感じませんが、ヨーロッパでは、教養は階層再生産につよい力を発揮します。中略 学歴とか,音楽や美術についての趣味のよさとか、テーブルマナーとか、ワインの選択とかは、所得階層を示す身体かされた指標であり、文化的な格差の再生産装置なのです。」(P131)

 なんとも残酷な装置ですね。このあたりを読んだだけでもなるほどと思います。

 現在欧州で人種暴動や、移民の排斥が広範囲行われています。それは欧州各国の下層市民の共同体圧力が強く、移民文化を受け入れないのでしょう。移民の増加が自分たちの下層の共同体の危機ととらえ排斥に動いているのかもい知れません。そうなると解決は簡単ではありません。


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